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A列車で行こう ポータルサイト > 特別企画 > A列車jp発「構想何十年!? 都市鉄道の整備には時間がかかる」
2008年6月開業の副都心線で終了するはずだった、東京メトロの地下鉄建設が再開しました。有楽町線豊洲~住吉間、南北線白金高輪~品川間の鉄道事業許可を2022年3月に取得すると、2024年6月に東京都市計画の決定が告示され、11月5日に着工しました。
両プロジェクトは国土交通大臣の諮問機関である交通政策審議会が2016年に答申した「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」で、「国際競争力の強化に資する鉄道ネットワークのプロジェクト」に位置付けられました。
2016年の答申で初めて登場した南北線延伸は「品川駅周辺再開発とリニア中央新幹線整備」という近年の東京の変化を反映した計画ですが、「国際競争力強化の拠点である臨海副都心とのアクセス向上」を目的とする有楽町線延伸は長い歴史のある構想です。
長い歴史とは2016年の答申から10年前でしょうか、20年前でしょうか、実は最初に登場したのは答申時点で40年以上、現在から見て50年以上前の1972年でした。
交通政策審議会の前々身にあたる都市交通審議会が1972年に答申したのが、答申第15号「東京及びその周辺における高速鉄道を中心とする交通網の整備増強に関する基本計画について」です。
詳しい成り立ちは後述しますが、副都心線にあたる「地下鉄13号線」、都営大江戸線の都庁前~光が丘間にあたる「地下鉄12号線放射部」とともに、新たに追加されたのが8号線(有楽町線)の新富町~新木場間と、豊洲から東陽町、住吉、押上を経由して亀有に向かう分岐線です。
12号線放射部は1986年に着工して1997年に全通(環状部は2000年開通)、13号線(池袋~渋谷間)は2001年に着工して2008年に開通しましたが、8号線分岐線は1982年に地方鉄道敷設免許を申請するも認可されないまま、たなざらしになっていました。
なぜ東京メトロが建設を再開したのか、なぜ豊洲~住吉間だったのか、経緯は政治的な話になるので今回は取り上げません(興味があれば筆者の他媒体の記事をご覧ください)。今回は「鉄道整備はなぜ構想から実現まで長い時間がかかるのか」をテーマに、東京の地下鉄整備史を振り返ってみましょう。
地下鉄の建設には莫大な費用と長い時間が必要です。地下鉄といっても、どこでも自由にトンネルを建設できるわけではありません。工法の面から言うと、地上から掘り下げる「開削工法」には地上の用地が必要ですが、用地を買収し、建物を撤去していては費用と時間がかかりすぎます。そこで地下鉄建設では駅部分のみ用地を買収し、線路は道路など公有地の地下に建設されます。
駅間のトンネルで一般的に用いられる「シールド工法」でも同様です。地中を横にくりぬくため、地上の制約がないように思えますが、土地は上空、地下とも所有権が及ぶため、よそ様の土地の地下にトンネルを勝手に掘ることはできません。
それでも交差点をカーブする場合など、道路を外れてトンネルを掘らなければならない箇所もあります。都市開発ゲームの「A列車で行こう」では高層建築の基礎部分を除き、建物の地下に線路を敷設できますが、実際には「地上権」という権利を設定し、地権者に補償することで建設を認めてもらいます。
道路であればどこでもトンネルを建設できるわけではありません。複線トンネルは幅が10メートル程度必要なので、工事に必要なスペースを考慮すると片側一車線の道路では足りず、二車線以上の幹線が望ましいところです。どうしても細い道路を通過しなければならない場合は、千代田線町屋~根津間のように上下二段でトンネルを建設します。
こうした条件を満たす道路は限られます。地下鉄が大量輸送機関としての役割を発揮するには、都市の主要拠点を結ぶ必要があり、そのためには地上の道路計画との連動が欠かせません。「A列車で行こう」でも考えなしに線路を建設したために再度、建設しなおして、無駄なお金を使ってしまったという経験があるでしょう。現実には線路を作り替えることはできませんので、綿密な計画が欠かせないというわけです。
では地下鉄ネットワークはどのように作られてきたのでしょうか。東京初の地下鉄計画が立案されたのは100年以上前、1919年のことでした。第一次世界大戦の戦争特需で日本経済は急速に発展し、東京の人口は急増。住環境の悪い都心から郊外へ移り住む流れが起き始めた時期でした。
東京には既に高密度の路面電車ネットワークが存在していましたが、地下鉄は単に路面電車を置き換えるだけの存在ではありません。人や車と道路を共有するため速度や車体サイズに制約のある路面電車より高速かつ大量輸送が可能な交通機関であり、郊外化に対応した交通機関との位置づけでした。
しかし1923年に関東大震災が発生すると、最初の地下鉄計画はすぐに見直しを迫られます。幹線道路の整備や区画整理など大規模な復興事業が決定したことで、新たな都市構造に対応した経路に改める必要があったからです。こうして1925年に1~5号線の5路線からなる地下鉄計画が告示されました。
地下鉄には路線名とは別に、計画上の路線番号が設定されています。都営浅草線は1号線、日比谷線は2号線、銀座線は3号線、丸ノ内線は4号線、東西線は5号線です。都営地下鉄は路線名を付けず「1号線」「6号線」と呼んでいた時代がありましたし、「12号線」や「13号線」のように、建設中は番号で呼ばれることがあります。
初めて建設された銀座線が3号線、戦後初の丸ノ内線は4号線であり、規則性が分かりにくいですが、1925年計画の路線図を見ると、山手線と交差する順に割り振られていると理解できます。
1925年計画の5路線と実際に建設された現在の路線図は、起点・終点や経路はやや異なりますが、よく似ています。手探りで作られた1919年の計画が関東大震災を契機に根本から作り直されたのに対し、1925年の計画をベースに戦災復興や高度成長などの見直しを重ねたものが現在の路線網だからです。
東京で唯一、戦前に開通した銀座線は東京地下鉄道、東京高速鉄道という私鉄が建設しましたが、両社の主導権争いや資金不足で建設が停滞したため、1941年に発足した帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が引き継ぐことになりました。以降の路線は銀座線より車体を大型化しながらも、同様の第三軌条(サードレール)方式で整備する計画でした。
実際、戦後初かつ営団初の新規路線である丸ノ内線は同規格を採用して建設されましたが、その後は一般的なパンタグラフ式が取り入れられました。これは終戦直後から1950年代前半にかけて、地下鉄建設停滞の隙を突いた近郊私鉄が相次いで都心進出を図ったため、交通計画が混乱したことが背景にありました。
結局、1956年の都市交通審議会答申に基づき、地下鉄建設は引き続き交通営団が担当するとしつつも、東京都も補助的な位置づけで参入が認められ、郊外私鉄、国鉄はこれら地下鉄と相互直通運転を行うという現在の体制が形作られました。こうして都営浅草線、日比谷線、東西線は当初の構想とは異なる形で完成。以降は相互直通運転が計画の前提となりました。
続いて、1962年の答申で6~10号線、1968年の答申で11、12号線が追加されました。1968年の答申で特筆すべきは、池袋~成増間は丸ノ内線、渋谷~二子玉川間は銀座線を延伸する計画だったのが、小型・短編成では輸送力が不足するとして、前者は8号線(有楽町線)、後者は11号線(半蔵門線)での対応に変更したことです。
1960年代までの地下鉄計画は、池袋、新宿、渋谷、北千住など私鉄のターミナルと都心を結ぶ路線と、そのバイパス路線の整備が優先されました。しかし1970年代以降は、高度成長で加速した都心一極集中を是正するため、都心西部(池袋、新宿、渋谷)を縦断する13号線、都心東部(押上、東陽町、豊洲)を縦断する8号線分岐線が計画され、副都心の育成を図りました。
計画の変更で実現した路線が都営大江戸線です。東京では唯一のリニア地下鉄として知られる大江戸線ですが、当初は都営新宿線などと同様、20m車両10両編成の普通鉄道を想定していました。
しかしオイルショックで都の財政が悪化し、計画は凍結されてしまいます。それでも都心の均衡ある発展のために、どうしても環状線を建設したい都は、車両を小型化することで駅とトンネルの規模を縮小し、建設費を削減することで着工にこぎつけました。
このように、様々な事情で地下鉄計画は変化しますが、地下鉄の改築は容易ではなく、手戻りは許されません。完全に独立した地下鉄は存在せず、いずれかの箇所で他路線と接続または交差するため、トンネルを通す空間を確保しておいたり、将来を想定した「準備工事」を行ったりすることがあります。
実は最古の銀座線でも準備工事がなされていました。例えば銀座駅は地下3階に交差部の構築を用意しており、後に日比谷線の建設にあたって利用されました。また赤坂見附駅は建設当初から上下二段構造であり、丸ノ内線建設にあたってはホームを拡幅した上で、両路線を対面乗り換えできるようにしました。
陽の目を見なかった準備工事もあります。銀座線は日本橋~京橋間で5号線と交差する予定だったので、乗換駅として「槇町駅」を設置できるよう、駅部と同様のトンネル構造となっています。結局、5号線(東西線)は日本橋を通過することになり、槇町に駅は設置されませんでした。
今回の有楽町線延伸においても、豊洲駅と半蔵門線住吉駅の準備工事が役立ちました。豊洲駅から住吉方面への分岐用に用意されたのが、現在は蓋をされ通路として使われている2番線・3番線です。ホームだけでなく住吉方面の線路が、新木場方面の線路を乗り越す部分まで用意されています。
上下二段式の住吉駅は、電車の留置スペースとなっている未使用ホームが有楽町線とつながります。住吉~押上間は元々8号線分岐線の一部でしたが、1985年に半蔵門線が同区間経由で押上に延伸することになったため、住吉駅で合流できる構造としたのです。
有楽町線新富町~新木場間の着工は1982年、半蔵門線水天宮前~押上間の着工が1993年です。前述のように8号線分岐線の免許申請は1982年に行われていますので、豊洲駅の設計に反映されているのは当然です。むしろ乗降人員が開業時の想定を超えて駅構内の混雑が問題化していることから、今回の延伸工事で新たにホームを1面増設することになりました。
一方、住吉駅の準備工事は今となっては「英断」でした。1990年代は既に営団民営化の議論が進みつつあり、民営化は新線建設の終了を意味することから、8号線分岐線を建設する可能性は限りなく低くなっていました。
実際、民営化直前の2004年3月に発行された『半蔵門線建設史(水天宮前~押上)』には、住吉駅が上下二段構造の目的について一切の言及がありませんが、建設本部の矜持として将来を見据えた布石を打っていたのです。
営団の建設本部は時に、既定の計画にない「準備」まで仕込んでいました。南北線の延伸は白金高輪駅の先にある留置線を延長する形で建設しますが、当初から延伸に対応できる設計にしていたと、当時の設計担当者から聞いたことがあります。ということは、形にならないまま消えていった「準備」も同様にあるのでしょう。
国、自治体から鉄道事業者、さらに末端の担当者まで、さまざまな思惑が入り混じる地下鉄整備の奥深さ、感じていただけたでしょうか。
掲載日:2025年9月12日
提供:A列車で行こうポータルサイト「A列車jp」(https://www.atrain.jp/)