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A列車で行こう ポータルサイト > 特別企画 > A列車jp発「駅がなかった宿場町は、なぜ「鉄道の町」になったのか?」


「鉄道の町」って聞いたことありますか? 「鉄道と駅があれば鉄道の町」ではありません。たくさんの路線が集まる東京駅や新宿駅周辺は「鉄道の町」とは言いません。新橋、品川、横浜は鉄道発祥の地ですが、鉄道の町と呼ばれることはなさそうです。当時の新橋は現在の汐留ですし、横浜は鉄道というより港町ですね。
ネットで「鉄道の町」を調べると、JRの前身、日本国有鉄道が12の駅とその周辺を公式認定したという説を見かけます。しかし、「鉄道百五十年史」ほか、国会図書館デジタルアーカイブなどで探しても、国鉄が発表した資料は見当たりません。

この「鉄道の町12選」の出所は新聞記事だったようです。朝日新聞1986年3月3日東京版夕刊の記事「消えゆく『国鉄の町』分割・民営化論が追い打ち」で、「国鉄本社を通じ各総局、管理局に『鉄道の町』を拾い上げてもらった」と紹介しています。記事の本論は「国鉄の選からもれた、小さな『鉄道の町』がむしろ深刻」という内容です。国鉄が分割民営化する1年前の記事で、合理化によって「鉄道の町」が衰退するかもしれないという論調でした。国鉄本社広報の回答ですが、「公式認定」とは言えません。
新聞記事で上げられた12の町の他にも、直江津、王子、亀山などが観光ガイドなどで「鉄道の町」と紹介しています。これら「鉄道の町」の共通点は、機関区や鉄道車両工場がある、あった地域です。もともと大きな産業がなかったところに鉄道施設ができて、そこで働く人と家族が住む。その人たちのために商店ができて、娯楽施設ができる。そんな便利な町だから、近隣の駅からも鉄道で訪れる人が増える。人が集まれば、鉄道関係以外の人も移住し、買い物に来たり、働いたりと、ますます発展します。そんな地域が「鉄道の町」と言えそうです。しかし、鉄道関連施設がなくなると、「鉄道の町」も衰退します。岩見沢、追分は石炭輸送の操車場や機関区がありました。しかし石炭産業の衰退とともに町の人口は減っていきました。土崎は車両工場がありましたが、現在は秋田総合車両センターと名前を変え、車両の検査が主な業務になっています。かつて3500人もいた従業員は1986年時点で600人まで減りました。それでも土崎は「鉄道の町」と紹介されることがあります。「鉄道の町」は町にとってプライドとも言えそうです。

12の「鉄道の町」のなかで、もっとも大きく発展した町は「大宮」です。現在のさいたま市の一部です。大宮にとって、鉄道は発展のきっかけでした。鉄道があって、便利になって、産業と人が集まって、現在の大宮があります。
大宮の歴史は「武蔵一宮 氷川神社」から始まります。約2500年の歴史を持つ神社で、関東一円の氷川神社の総本社です。これが「大いなる宮居」と称えられ、「大宮」の地名となりました。中山道が整備されると大宮宿を中心として町が作られました。江戸時代、1843(天保14)年の人口は約1500人、その24年後の1867(慶応3)年には約3000人と伝えられています。

大宮周辺は明治新政府による廃藩置県で大宮県となりました。しかし、なぜか浦和宿に県庁が作られることになり、大宮県は浦和県に改称されました。ここから大宮宿の衰退が始まります。1869(明治2)年に人口1752人、1872(明治5)年に1686人、明治12年(1879)には952人まで減少しました。
1883(明治16)年に日本鉄道が上野~熊谷間に鉄道を開業しました。この路線は1年後に高崎、前橋へ延伸します。熊谷まで開業した時の中間駅は王子、浦和、上尾、鴻巣です。浦和県の駅は県庁のある浦和が選定されて、大宮は通過するだけでした。
日本鉄道は、既存区間のどこかから分岐して宇都宮、白川方面へ向かう路線を計画しました。将来は青森に至る路線です。分岐駅は、熊谷、大宮、浦和、川口などが検討されました。この時点で最も有力な分岐点は熊谷駅と浦和駅でした。

しかし、大宮の衰退を憂い、地元の有力者、岩井右衛門八、白井助七らが県と日本鉄道に駅の設置を働きかけます。岩井は大宮の有効性を訴えるため、日本鉄道に対し「大宮駅ができれば乗客年間2000人、貨物年間450俵の見込み」と説明しました。日本鉄道が視察に来たときは近隣から芋俵その他の荷物をかき集めて見せたそうです。さらに、肥料問屋だった白井たちは駅の建設に必要な土地を無償提供すると約束します。
熊谷でも誘致運動がありました。熊谷付近に伊勢崎、足利など繊維産業があり、地域の発展に鉄道が寄与するからです。一方、浦和・川口は分岐先の岩槻が鉄道に反対していました。さまざまな要望があるなかで、鉄道局長井上勝は大宮分岐を裁定しました。井上の考えはこれらの地域の利益よりも、国策として、いちはやく青森へ鉄道を延ばすことでした。
大宮分岐案は熊谷分岐案に比べて宇都宮までの線路が短く、青森までの最短距離になります。また、鉄橋の数も少ないなどによってコストが低くなります。浦和案・川口案は途中まで本線に近いルートになり、並行させる意味がないと考えました。
1885(明治18)年3月に大宮駅が開業し、4カ月後の7月に分岐路線が栗橋駅まで開業し、1891(明治24)年に青森に到達しました。この路線がのちに国有化され、東北本線となります。路線が延びるごとに大宮駅の乗降客数も増えていきました。1892(明治25)年の年間乗降客数は16万114人に達しました。
日本鉄道は車両工場を持たず、技術面では官営鉄道に頼っていました。しかし、路線の延伸とともに、車両数も増加します。そこで、自社工場の建設を計画します。ここでも白井助七が誘致運動を展開し、大宮駅の北側、約3万8000坪、約14万平方メートルの土地を提供しました。この誘致も成功し、1894(明治27)年12月に大宮工場が操業を開始します。上野駅周辺に点在する各種修繕所を移転集約させる形で、239人が転勤しました。
これが「鉄道の町・大宮」の始まりです。大宮工場の従業員は翌年に500人と倍増し、3年後には1300人を突破、1905(明治38)年に1579人に達します。最盛期には約5000人となりました。その家族や、彼らの生活を支える商店なども増加して町は大発展を遂げます。つまり「鉄道産業の企業城下町」となったわけです。日本鉄道が国有化されたあと、1907(明治40)年の乗降客数は62万6624人で、1892(明治25)年の4倍になりました。また、貨物の取扱いも増えました。主な貨物は甘藷(さつまいも)、繭などです。群馬県の養蚕、製糸産業の発展に鉄道が貢献しました。
利用客の増加に対応するため、上野~大宮間の複線化工事が行われ、1895(明治28)年に完成します。鉄道のおかげで群馬方面、栃木方面から人と物が集まり、東京へ直結する町になりました。交通拠点の大宮に向けて、道路や乗合馬車も整備されました。鉄道のおかげで発展した大宮は、鉄道のさらなる進化も後押ししました。
駅ができ、3方向の線路が集まり、東京方面は複線で輸送力が大きい。そんな大宮は新たなチカラを得ます。もともと家内工業的な製糸業が盛んでしたが、1901(明治34)年に信州の片倉製糸が大宮に機械製糸工場を設置しました。北に繭や綿花の産地、南に東京という大消費地があり、横浜へ運べば世界へ輸出できることを背景として、産業立地として注目されたためです。このほか、岡谷製糸、山丸製糸など信州資本の製糸業が続々と大宮に進出します。1910(明治43)年には11の製糸工場がありました。
これらの工業製品を扱う問屋や鉄道貨物取扱店、小売店、飲食店も増加するなど、商業も発展していきます。銀行の設立も相次ぎ、ますます町が発展していきました。大宮は宿場町時代に通過点、分岐駅ができて荷物の積み替え拠点でした。しかし、商業が発達することで、大宮を目指して人やモノが集まります。1906(明治39)年に川越電気鉄道が開業し、川越~大宮間の電車運転を始めます。
1923(大正12)年、関東大震災が発生します。大宮鉄道工場は煙突が倒れ、レンガ造りの建物は全半壊、山丸製糸工場も煙突が崩壊、倉庫全壊によって、多数の死傷者が出ました。その一方で、東京から受け入れた避難者が定住したため、大宮町の人口は急増します。大宮町は都市計画を作り、住宅対策や上下水道の設置を進めます。こうして「住みよいまちづくり」が始まり、さらなる人口増を招きました。
1929(昭和4)年、北総鉄道が粕壁(現・春日部)~大宮間を開業します。この会社は5日後に総武鉄道へ社名変更しました。この路線はのちに東武野田線(アーバンパークライン)となります。
日本鉄道は大宮発着の旅客列車と貨物列車の増発に対応するため、上野側から貨物用の複線を追加しており、1932(昭和7)年に大宮に到達しました。少し遅れて直流電化区間も大宮に到達し、京浜東北線が乗り入れました。
1940(昭和15)年、川越~大宮間に川越線が開業します。都心を迂回して、中央本線と東北本線・高崎線を結ぶ路線として計画された路線です。一方、川越電気鉄道は廃止されました。関東大震災前に西武大宮線と名前を変えていましたが、設備の老朽化による事故多発で乗客が離れていきました。そして川越線の開通にトドメを刺された形です。
第二次大戦後は復興と高度経済成長を背景に、鉄道輸送の需要がますます高まっていきました。鉄道の町大宮は、急増する貨車を裁くため、1961(昭和36)年に大宮操車場を移転拡大します。一方、大宮市と周辺地域は東京のベッドタウンとして人口増加が続きます。

1962(昭和37)年に大宮発の百貨店「大一デパート」が誕生しました。駅前商店街の戦災店舗などが集まって形成された商業施設です。1966(昭和41)年に大宮中央デパートが開業して、商業都市としても発展していきます。1967(昭和42)年に大宮駅ステーションビルが開業します。民衆駅といって、国鉄が土地を提供し、民間資本によって建てられた商業ビルです。この3年後に大宮高島屋が開業しています。この年、東北本線の複線がもうひとつ追加され3複線区間となりました。京浜東北線と東北本線が分離独立します。

1982(昭和57)年、6月に大宮~盛岡間で東北新幹線、11月に上越新幹線が開業しました。1983(昭和58)年に埼玉新都市交通ニューシャトル、1985(昭和60)年に埼京線が開業して、大宮駅周辺の鉄道路線網が現在の姿になりました。
一方で、全国の道路整備やトラック輸送の発達を受けて鉄道貨物輸送は衰退していきました。広大な大宮操車場は1986(昭和61)年に役目を終えました。跡地は現在、さいたま新都心になり、アリーナや大型商業施設などが誕生し賑わっています。鉄道施設が縮小することで、さらに町が発展するという「鉄道の町」にとっては皮肉な結果になっています。

大宮駅が開業した頃、周辺は畑や竹藪ばかり。民家は約20戸だったそうです。大宮宿は1889(明治22)年に周辺の村と合併し大宮町となり、1940(昭和15)年に大宮市となり、2001(平成13)年に浦和市、与野市と合併して「さいたま市」となりました。2026年6月現在、さいたま市の人口は136万1036人、このうち旧大宮市に当たる地域の人口は約54万人とのこと。

鉄道の町・大宮は、駅の誕生をきっかけに人とモノがあつまり、産業を呼び、新たな鉄道路線や道路が整備されて発展してきました。今後も埼玉高速鉄道線の浦和美園~岩槻間延伸や、大宮~浦和美園間の東西交通新設どの路線構想があります。大宮は現在進行形で鉄道と歩む町といえそうです。

掲載日:2026年7月10日
提供:A列車で行こうポータルサイト「A列車jp」(https://www.atrain.jp/)