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A列車で行こう ポータルサイト > 特別企画 > A列車jp発「トレインコンストラクション発売記念! 鉄道車両のお約束〈電車の顔編〉」
日本の電車は路面電車から始まりました。1両で運転するため、両側に運転台があります。明治期の路面電車は客室の外、デッキ部に運転台がありました。運転台には窓ガラスがありません。これは欧米で開発された鉄道車両が幌馬車の設計を踏襲したからという説があります。
1904(明治37)年ごろになって運転台に窓ガラスが取り付けられました。左・中央・右に分かれた「3枚窓」タイプが主流でした。運転台の窓はいくつかに仕切られました。これは大型で強固なガラスを製造する技術が未発達だったこと、鳥などが当たって破損した場合、壊れた窓ガラスだけを交換すればよかったからです。
3枚窓の場合は、左右側の窓の外側が少し後退しています。これは正面から受ける風を受け流すためです。また、暑い時期に風通しを良くするため、下降して窓を開ける工夫もありました。3枚窓はその後、多くの鉄道会社が採用し現在に至ります。
前面2枚窓の電車の先駆けは大阪市電の801形です。1932(昭和7)年に製造されました。ただし、客室から運転台までの幅を絞った形で前面面積が狭く、窓ガラスの大きさは客室とほぼ同じです。ただし、これ以降、しばらく前面2枚窓の車両は登場しなかったようです。理由は定かではありませんが、破損時の交換が不便であるとか、車体の大型化によって運転台も幅広となって、3枚窓の方が落ち着く、といったところでしょうか。
1950年代になると窓の大型化が進みます。先駆者は国鉄80系電車でした。製造当初は湾曲した前面に3枚窓でしたが、1950年に登場した先頭車から左右の2枚窓になりました。左右の窓は側面と上面が後方に後退する形で設置されました。これは空気抵抗を受け流すためです。この前面は斬新で美しく、湘南形と呼ばれ私鉄の車両にも影響を与えました。
窓の大型化は窓ガラスや空気力学の技術進化によるものです。そして大型窓は運転士の死角を減らし安全にも貢献しました。湘南形以外にも大型2枚窓を採用した路面電車が登場しています。ただし路面電車のほうは鉄道の電車より車体が狭いため、運転士にとっては窓間中央の柱が目障りで不評だったようです。
窓が大きいと見通しもいい。しかし柱が邪魔。それを解決する方法が「変則3枚窓」です。1枚だけ大きな窓とし、となりに小さな窓を作ります。小窓を開閉可能とし、大型窓の一部を下降型として風を取り入れる工夫もありました。片側の窓だけ大きくした変則2枚窓、中央の窓だけ大きくして両側に小窓を設けた変則3枚窓が登場し、こちらが主流になります。
その後、強化ガラスや曲面ガラスなどの技術進化と冷房の搭載によって、大型1枚窓の路面電車が誕生して現在に至ります。現在、LRTと呼ばれる路面電車の多くが前面1枚の大型窓を採用しています。
日本の法律では路面電車を「軌道」と呼び、「鉄道」と区別します。鉄道の電車も3枚窓から始まりました。湘南電車の2枚窓が流行し、現在は大型1枚窓が増えています。しかし、3枚窓の電車も根強く残っています。その理由は「非常口」です。
明治時代の客車は独立しており、連結した客車間の移動はできませんでした。しかし、1898(明治31)年に日本初の列車内殺人事件が起き、客車の密室状態が問題になりました。車掌が巡回できず異常事態を察知できなかったことと、被害者の逃げ場がなかったことが問題になりました。その後、客車間の貫通路と貫通幌が整備されました。
1951年4月に「桜木町事故」が発生しました。死者106人、負傷者92人という列車火災事故でした。原因は架線が垂れ下がり、パンタグラフに絡みついて火花が飛び、木造の電車に引火したからでした。5両編成の電車のうち先頭車1両が全焼、2両目以降も延焼しました。この電車は貫通路がありましたが、貫通幌はありません。走行中に電車の外に出ると危険という判断から、貫通路の扉に鍵がかかっていました。また、小さな窓では脱出できず、結果的にたくさんの乗客が焼死、あるいは窒息死となりました。
これをきっかけに、既存の電車も貫通路と貫通幌が整備されました。車体の前後どちらかに貫通路を設置すること定められましたが、先頭車同士を連結する場合や、先頭車を編成の中間に連結する場合は、運転台側も貫通路が必要となります。そこで、電車の顔にあたる運転台も中央に貫通路と貫通扉を設けました。その結果、先頭車の窓も3つになりました。
車体の前後どちらかに貫通路を設置せよという定めのため、中間車として使う予定のない先頭車は貫通路がありません。中央に貫通路を設けた運転台は、左右の窓を目に、貫通路を鼻筋に、連結器周りを口に見立てられます。なんとなく人の顔に似て愛嬌があります。
1948(昭和23)年、米国で高級車キャデラックの運転席に曲面ガラスが採用されました。自動車産業では世界初のデザイン革命でした。曲面ガラスは鉄道車両にも採用されました。日本では1957(昭和32)年に名古屋鉄道5200系電車に採用され、翌年に国鉄の急行電車153系に採用されました。運転席左右に設置され、前面から側面に回り込む形です。貫通路付き3枚窓の運転席は視界が狭いため、側方への視認性を向上しました。そしてなによりも、外観上の斬新なデザインを演出しました。
この曲面ガラスの造形はどんどん進化し、大型化します。左右または上下だけを曲げる2次曲面ガラスのほか、上下左右方向に曲る3次曲面ガラスも誕生しました。前面は大きな1枚ガラス、あるいは中央を大きくした3枚ガラスが主流です。先頭形状が複雑化し、数枚のガラスを組み合わせた電車もあります。
曲面ガラスを使った電車でも、運転士の視線の範囲は平面になるよう配慮されています。これは景色が歪まないようにという配慮です。南海電鉄50000系は球体の先頭車ですが、窓ガラスは2次曲面です。西武鉄道001系の運転は曲面ガラスの美しいデザインが印象的です。運転士の視線とガラス面が垂直になるよう配慮されています。ワイパーの作動部には工夫が必要だそうで、フランス製の特注品を使っています。
1927(昭和2)年に日本初の地下鉄として銀座線が開業しました。この初代車両1000形も先頭車前面中央に扉を設置し、扉とその両側に窓を設けたので3枚窓になりました。地下鉄トンネル内で火災が起きた場合、乗員乗客の逃げ場がありません。そこで1000形は国鉄や大手私鉄よりも慎重な火災対策を実施しました。
当時は木造車体が一般的でしたが、1000形は車体もすべて鋼鉄製にしました。屋根板、天井、壁の内張まで鉄製です。ただし、内張部分の鉄板は木目調の印刷が施されました。そして、先頭車運転台には中央に扉が設置されていました。ここが非常口になります。電車から脱出する場合は、編成の先頭または後尾の運転台の扉から脱出します。銀座線は第三軌条といって、線路の外側に電気を流すレールがありますから、非常口は前面の中央にあります。脱出した乗客は、走行用レールの間を歩いて駅や非常口に向かいます。
電車の前面にある扉は、専門用語では「貫通口」といいます。「貫通口」を「扉」でふさいでいるわけですね。貫通口のうち、隣の車両に移れる構造を「貫通路」といいます。
前出の1951(昭和26)年の桜木町事故で、前面貫通口の有効性が改めて評価されました。1956(昭和31)年には南海高野線でも火災事故があり、運輸省(当時)が鉄道車両の火災対策に乗り出します。近畿日本鉄道の工場で燃焼実験を実施し、地下鉄用の「A様式」、その他路線用の「B様式」が定められます。この様式は1957(昭和32)年の大阪市営地下鉄(当時)御堂筋線の火災事故の教訓から、さらに厳しい「A-A様式」に格上げされました。
さらに、1968(昭和43)年に営団地下鉄(当時)日比谷線の車両全焼事故を受けて、さらに強化した「A-A基準」「A基準」「B基準」として法令化されました。特に厳しい基準の「A-A基準」は、原則としてすべての地下鉄車両の前後に貫通口を設置することが定められました。このほか、座席素材を難燃性とした以外は、原則的に不燃性素材を使うこと、非常灯、旅客が操作できる非常ブレーキやドアコックの設置など、細かく定められています。
その結果、地下鉄乗り入れ車両の先頭車には貫通口が設置されています。ただし、貫通口が前面の中央にある必要はありません。そこで近年は、非常扉を運転席から見て右に寄せて、運転席を広くした車両も増えています。デザイン技術の発達で、扉が目立たない車両もあります。前出の西武鉄道001系も、球体としてまとまっているように見えて、実は貫通口があります。
なお「A-A基準」の貫通口は、車体とトンネル壁の間隔が400mm以上であれば省略しても良いことになっています。これは主に長大な山岳トンネルや、シールド掘削トンネルで横幅が取れる場合などを想定しています。たとえば横須賀線、総武快速線、りんかい線の車両は貫通口がありません。一方で大都市の地下鉄は建設コストを下げるためトンネルを小さくしていますから、貫通口は必要な装備です。
国鉄103系電車は、運転台が低い形と高い形があります。高いほうが新しい形で、1974年に登場しました。踏切事故対策と、電気機関車のように高い位置の方が視野を確保できるためです。高運転台型は窓の位置も高くなったため、ステンレス製の飾り帯が取り付けられました。ヘッドマークの位置が高くなって見やすくなるという副効果もありました。
高い運転台と言えば、1961年に登場した名古屋鉄道のパノラマカーや、1963年に登場した小田急ロマンスカーは、運転席を2階に上げて、1階を展望車にするという斬新な仕様でした。運転席からの視野は拡大されましたが、高すぎて信号機を見下ろす形になってしまいました。小田急電鉄では全線にわたって信号機の位置を確認、調整したそうです。
楽しい話だけではありません。高い運転台は事故対策でもありました。
1991年に北海道の日高線で、踏切に立ち往生していたタンクローリーに各駅停車のキハ130形が衝突する事故がありました。この事故で運転士は両足切断の重症、乗客乗員40人以上が重軽傷となりました。この事故をきっかけに、新造される車両の運転席はさらに高い位置になりました。
1992年に千葉県の成田線で、踏切に進入したダンプカーと113系電車が衝突し、運転士が死亡、乗客65名が負傷しました。この教訓から、前面に鋼板を被せて補強しました。また、その後の新製車両は、運転席を拡大し、衝撃吸収構造としています。また、運転席の背後に客室への脱出口が設置されました。
電車の顔は、窓ガラスの技術向上や貫通口の必要性、運転士の安全対策など、さまざまな要因で進化してきました。とくに貫通口と運転台の高さは、痛ましい事故の教訓の積み重ねです。鉄道車両をデザインするときは、カッコ良さだけではなく、安全面も配慮するとリアルになります。
もっとも、A列車鉄道は最先端の衝突防止仕様になっているので事故はありません。事故がない世界だったら、もっとカッコいい電車を作ってみても楽しいでしょう。現実の世界も遠い将来は自動運転となるため、運転台や前面窓がなくなるかもしれません。すでに、リニア中央幹線には運転席がありません。これは時代を先取りしているといえそうです。
掲載日:2024年11月29日
提供:A列車で行こうポータルサイト「A列車jp」(https://www.atrain.jp/)
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