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A列車で行こう ポータルサイト > 特別企画 > A列車jp発「[新幹線と観光地]『ガーラ湯沢』を発案した『7人のサムライ』とは?」



市販の時刻表の巻頭地図に不思議な駅があります。秋から冬の時刻表に記載されているのに、夏の時刻表に記載されません。その不思議な駅は上越新幹線の「ガーラ湯沢駅」です。鉄道ファンにとっては「夏に消える駅」というトリビアで知られています。
お察しの通り「ガーラ湯沢駅」は、隣接するスキー場「ガーラ湯沢」が営業している時だけ列車が発着する駅です。だからスキーシーズンの時刻表の巻頭地図だけ表示されて、スキーのオフシーズンは表示されません。スキーを楽しむ人には「日帰りできるスキー場」「手ぶらで行けるスキー場」として有名です。

ちなみに、香川県のJR予讃線の津島ノ宮駅は夏に発売される時刻表に記載されます。この駅は夏の2日間、津島ノ宮のお祭りの時だけ営業します。佐賀県のJR長崎本線のバルーンさが駅も佐賀インターナショナルバルーンフェスタの開催時期の時刻表に記載されます。いちいち消さなくても、ずっと表示しておいて「欄外に○○の時期だけ営業します」と表示すればいいのにと思います。茨城県のJR常磐線の偕楽園駅は春の梅まつり期間中だけ営業する駅です。しかし時刻表の索引地図は通年で表示されます。この扱いの違いは不思議ですね……おっと、脱線してしまいました。

ガーラ湯沢駅は、上越新幹線の保線基地に隣接しています。越後湯沢駅から保線基地に向かうための引き込み線を利用してガーラ湯沢駅が作られました。未開発の山林に駅とスキー場を作ろう。これがガーラ湯沢のコンセプトです。
スキーシーズンになると、東京から上越新幹線「たにがわ号」の一部がガーラ湯沢駅まで直通します。JR時刻表2025年11月号によると、12月13日以降2月まで、1日あたり最大で下り10本、上り13本が設定されています。3月以降は後日発表とのことです。天候に左右されるので、営業日の繰り上げ、繰り下げの可能性もあり、それに合わせて運転日も変更されます。

ガーラ湯沢駅発着の列車は、下りは午前中が多く、上りは夕方以降が多くなります。これは都内から日帰りでスキーを楽しんでもらえるようにするためです。
ガーラ湯沢スキー場が開業するまで、スキーと言えばクルマで行くところ、あるいはスキーバスで行くところでした。自分のスキー板やスキーウェアを持って移動します。ガーラ湯沢はスキー用品のレンタルもあるため、荷物を持たずに新幹線に乗れます。スキー場のレンタルスキー用品は格落ちのイメージがありましたが、それを払拭するため、あえて高級ブランドを揃えて「借りたほうがカッコいい」というイメージを作りました。上越新幹線と一体となったガーラ湯沢スキー場は、こうした仕掛けで「日帰りスキー」や「手ぶらでスキー」を実現しました。スキー文化の革命といえます。
そして、JR東日本にとってもガーラ湯沢スキー場は画期的なプロジェクトでした。JRの前身、国鉄は国が株主の公共事業体「民業圧迫は御法度」であるため、民間企業と競合する事業は禁じられていました。しかし民営化されたJRにこの足かせはありません。ガーラ湯沢は、JR東日本が観光開発事業を始めた最初の事例となりました。

雪深い越後湯沢駅付近に、在来線と上越新幹線の保線基地があります。「ここに駅を作ってスキー場も作ろう」と発案した人たちは、その基地に勤務する在来線担当の5人と新幹線担当の2人、合わせて7人でした。後にガーラ湯沢運営会社の社長に就任する山岡通太郎氏は、著書『Gala・ビジネス創造の物語』で、彼らを「7人のサムライ」と紹介しています。
「7人のサムライ」たちは、仕事が休みの日に地元の山でスキーを楽しんでいました。保線基地の南側に湯沢高原スキー場、北側に石打丸山スキー場があります。しかし彼らは7人中5人が1級以上の腕前で、素人が入らない山も攻略していました。保線基地の西側にある高津倉山も、彼らにとっては庭のようなところだったそうです。
1987年4月に国鉄が分割民営化されます。民営化の準備の1つとして「職場提案制度」が設けられました。職員の意識改革の策かもしれません。主に職場改善の提案が多く、たとえば「勤務シフトの改善」、「ジュースの自販機を置いてほしい」という内容がほとんどでした。そんななかで、民営化1カ月前の3月に7人のサムライたちが「保線基地に駅を作り、スキー場を作ろう」という提案をしました。あまりにも大がかりで、突飛なアイデアでした。しかしこれが上層部の目にとまり、新潟支社、本社へ伝達されます。
そしてJR東日本発足からわずか2カ月後、6月に「スキープロジェクトチーム」が新潟支社内に発足します。7人のサムライたちは提案の具体化を指示され、保線区員の身分のまま、高津倉山の隅々や、他のスキー場の調査を実施しました。その1年間の調査報告書が本社を動かします。JR東日本にとって、国鉄時代からの「民業圧迫」の足かせがなくなり、鉄道以外の事業に力を入れようとしていました。その方針にスキープロジェクトは合致します。しかも若者に人気のスキーリゾートです。新生JRの象徴としても期待できます。
当時はバブル景気も手伝って、空前のスキーブームでした。JR東日本が発足した年の11月には原田知世さん主演の映画『私をスキーに連れてって』が公開されました。

高津倉山にスキー場を作る計画は過去にいくつかあったそうです。しかし、デベロッパーが食指を伸ばしては撤退していました。一方、地元の青年会議所を中心とした若い人たちは、湯沢が温泉とスキーだけの町で良いのか。新しい展開はないかと模索していました。勉強会も開かれていたそうです。そこに「7人のサムライ」の提案があり、地元の人々を動かします。
かつてデベロッパーが高津倉山から撤退した理由は「交通が不便だったから」でした。高度成長期を経て好景気が続くなかでは、「スキーはクルマで行くもの」でした。例えば同じ湯沢町の「苗場スキー場」は現在、3800台分の駐車場があります。スキー場は入場料制ではなく、リフト券を販売するビジネスモデルですから、多くの人に来てもらい、飲食も含めてお金を使ってもらわないと成り立ちません。高津倉山には大規模駐車場に適した場所がなかったのです。
しかし、駅を作るとなれば話は変わってきます。JR東日本にしかできない提案でした。JR東日本が作ろうとするスキー場は「クルマで行かない。新幹線で来てもらう」というコンセプトです。これなら周辺の「クルマで行くスキー場」と競合しません。共存共栄できるわけです。JR東日本と湯沢町がスキー場建設で合意し、共同出資の形で「上信越高原リゾート開発株式会社」が設立されました。
JR東日本と「上信越高原リゾート開発株式会社」の集客予想は22万~23万人と控えめでしたが、開業初年度は天候条件が悪い中で25万人を集客し、親会社の予想を超えました。その後も36万~37万人と好調に推移しました。

「まったく新しいタイプのスキー場を作る。ゆくゆくは通年で楽しめるリゾート開発を行っていく。」これは設立当初からの約束です。コロナ禍にJR東日本はガーラ湯沢でワーケーションを提案しました。それもこの約束が生きているからだと言えます。
ひとことで高津倉山と言っても、地権者は国、自治体、私有地などが入り組んでいます。地権者との交渉や環境面の基準などをひとつずつ解決していく必要があります。最大の難関は水問題でした。スキー場を作るには大量の水が必要です。高津倉山は魚野川の水源のひとつでもあり、支流から取水しようとしたところ、漁業組合から反対されました。
「春先の魚の産卵に影響する。申し訳ないが1リットルたりとも差し上げられない」どうにも解決できないと行き詰まった時、保線社員から「上越新幹線のトンネルから水が出ている」という情報を得ます。この水をポンプアップして再利用することにしました。建設中も難関が続きます。バブル景気による建設好況で資材が足りません。これも鉄道建設の縁で協力を得て解決していきました。
若いアイデアが生きた場面もあります。あらゆる建設作業が同時進行する中で、山のレストハウス「チアーズ」のホールの天井にボードを張る工程が間に合いません。しかし、これも「いっそ天井を張らず吹き抜けにして、コンクリート打ちっぱなしのロフト感覚にしてはどうか」という提案があり、内装を変更しました。
ガーラ湯沢駅に直結するスキーセンター「カワバンガ」は、他のスキー場に比べて広大な建物です。クルマでスキーの場合は1台分ずつ降りた人がバラバラに窓口に向かいました。しかし、新幹線は当時の200系電車10両編成の定員が749人、12両編成の定員が895人です。もちろん全員がガーラ湯沢まで来ることはなく、途中駅で降りる人もいます。とはいえ、約800人が同時に訪れ、リフト券を買い、用具をレンタルし、着替える。その流れも計算して設計されました。

1988年8月に「上信越高原リゾート開発株式会社」が設立されてから2年4カ月、1990年12月にガーラ湯沢はオープンします。親会社のJR東日本もスキー場行き新幹線のダイヤを優先し、開業の翌月から「JR SKISKI」キャンペーンを開始するなどパックアップします。TVCMも話題となり、国鉄から生まれ変わったJRのイメージアップにも貢献しました。
しかし、スキーブームを後押ししたバブル景気は1990年頃に終ります。土地取引が抑制されて地価が下がり、日銀の公定歩合引き上げによって株価が下がると、それらを担保とした借金が返せなくなります。ほとんどの企業や人々が借金を抱えてしまい、遊ぶどころではなくなってしまいました。
ガーラ湯沢はスキーブームの最大入場者数を見込んで設備投資をしていたので、建設費が高く、累積債務が膨らんでしまいました。JR東日本は1999年に上信越高原リゾート開発株式会社を解散し、出資金など91億円を損金処理しました。しかし、ガーラ湯沢の廃止はせず、新幹線乗客増の効果はあったとして存続を決めて、新たに株式会社ガーラ湯沢を設立して再出発しています。
スキーブームは終っても、スキーを楽しむ人はいます。むしろ、自動車購入を控えた人にとってガーラ湯沢は鉄道で行けて便利です。また、レンタル用具を使えば自身で道具をそろえる必要がないため、節約型スキーリゾートという利点もあります。バブル経済崩壊後、たくさんのテーマパークやスキー場が閉鎖されています。その中でガーラ湯沢は生き残っています。
1990年頃のスキーブームはバブル経済の影響でした。これはスキーだけではなく、リゾート、レジャー産業も影響を受けています。湯沢町は1980年代後半から温泉付リゾートマンションの建設が急増し、約1万戸のリゾートマンションが販売されました。売り出し価格は当時の都心のマンションと同等の3000万円から5000万円が主でした。しかし、温泉をひくこともあって維持管理費が高く、手放す人が続出し、10万円で売れない物件も出たといいます。

しかし、少しずつ追い風も吹いています。新幹線で都心まで80分前後という立地もあり、主にリモートワークで働く人たちが定住する傾向があるそうです。築年数が30年を超えているため、管理費と修繕積立金が少し高めですが、販売価格は2000万円前後です。こうした物件に住む人たちが、湯沢町の新たな活力になるかもしれません。
ガーラ湯沢もスキーシーズンだけではなく夏季に「GALAサマーパーク」、秋に「GALAオータムパーク」を展開しています。ガーラ湯沢駅は営業していないので、越後湯沢駅からシャトルバスが出ています。駐車場は約400台ぶんがあります。
今後、「GALAサマーパーク」「GALAオータムパーク」が定着して人気が出れば、ガーラ湯沢駅まで四季を通じて新幹線で行けるようになるかもしれません。「手ぶらでスキー」が実現したように、手ぶらでキャンプ、手ぶらでハイキングなど、またまだ伸び代がありそうです。ガーラ湯沢駅が時刻表の索引地図に通年で表示される。これがガーラ湯沢の新たなチャレンジといえそうです。

参考
Gala・ビジネス創造の物語 山岡通太郎 著 情報センター出版局,
リゾートマンションが10万円!バブルの象徴!湯沢町が奇跡のV字回復のワケ…【新潟発】
https://web.archive.org/web/20200930211340/https://www.fnn.jp/articles/-/8421
GALA湯沢「ワーケーション聖地化計画」? JR東社員が実践 なんだか楽しそうな仕事スタイル | 乗りものニュース
https://trafficnews.jp/post/100333
掲載日:2026年1月9日
提供:A列車で行こうポータルサイト「A列車jp」(https://www.atrain.jp/)