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A列車で行こう ポータルサイト > 特別企画 > A列車jp発「【後編】“ご乗客”に楽しんでいただく、クオリティを上げる – 小林一三の理念とは」

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コラム

A列車jp発「【後編】“ご乗客”に楽しんでいただく、クオリティを上げる – 小林一三の理念とは」

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小林一三が発明した日本型私鉄経営モデルは、沿線住民に文化的な、楽しい生活を提供する仕組みでした。
小林一三は宝塚開発と百貨店の成功によって阪急の基盤を作り、財界人のひとりとして東京に進出します。
私たちが親しんでいる文化にも、小林はかかわっていました。

前の記事はこちら
A列車jp発「【前編】住宅開発、ターミナルデパート – 日本型私鉄経営モデルの発明者 小林一三の功績」

 

梅田が乗換駅から目的地になった

 大阪・梅田に最初にできた駅は官営鉄道の大阪駅でした。当時は梅田ステーションとも呼ばれていました。明治政府は当初、大阪の中心、堂島に駅を作る予定でした。しかし、用地買収の費用がかさむことと、京都方面と神戸方面を結ぶために中間駅スタイルの駅とするため、現在の大阪駅に変更されました。当時、阪急の梅田駅は官営鉄道の線路の南側、現在の阪急百貨店梅田本店の中に駅がありました。

1960年代の大阪駅周辺。阪急梅田駅は国鉄の線路の南側にあり、路面電車と乗り換えしやすかった。阪急梅田駅の南側が阪急百貨店だ(地理院地図を元に筆者加工)

 「阪急の駅が梅田にできた理由は、やはり官営鉄道に接続することが大きいです。それから御堂筋の路面電車に乗ると、歴史的な繁華街の方へ行けます。その乗り換えの便利のために、阪急の駅もここにできました。このあたりは他府県から大阪に来るようなビジネスマン、大阪中心部にお勤めのサラリーマン、そういう人たちがいらっしゃいました」

 阪急百貨店は当初、阪急電車だけではなく、官営鉄道や路面電車のお客様もアテにしていたようです。

 「百貨店ができたことによって、梅田が乗り換えのハブだけじゃなく、楽しみに行くための目的地になっていきます。百貨店でお食事しましょうとか、百貨店でお買い物しましょうと。そういうふうに、お客様が行きたくなるような場所を作る。これが“ご乗客”獲得作戦の第2段階になったんです。百貨店の前には箕面の動物園とか、宝塚の歌劇場とか、ファミリーランドなど、お客様の行きたくなる場所として育てていました」

 時代が進んだ展示物の中に、またすごろくがありました。カラフルになって情報がアップデートされているようです。

 「一三さんはこういうのが好きだったみたいです(笑)。電車を単なる交通手段だけじゃなくて、電車自体をエンターテインメントにしたい。いま阪急電車は『星のカービィ』のラッピング電車を走らせていますが、お客様を楽しませようとする一三さんの思いを、いまも社員は受け継いでいると思います」

 阪急電鉄は1920年に神戸線を開業しました。しかし、すでに官営鉄道の東海道線があり、阪神電鉄も前年に開通していました。3本目の路線ができても、すぐに乗ってもらえないだろうと考えた小林一三は、新聞広告にこんなキャッチフレーズを添えました。

 『新しく開通(でき)た神戸ゆき急行電車 綺麗で早うて。ガラアキで眺めの素敵によい涼しい電車』

 「ガラ空きの部分だけ(自虐的と)取り沙汰されるんですけども、そうじゃないんですよ。これ、ガラアキを隠してみると、綺麗、早い、眺めが素敵、涼しい。快適ですと良いことばかり言ってる。これはちょっと恥ずかしいと、ガラアキと照れ隠ししているだけなんです」

2017年の大阪駅周辺。JR大阪駅は大屋根ができた。阪急梅田駅は1969(昭和44)年に現在地に移転。2019年に大阪梅田駅に改称した。梅田貨物駅は2013年に廃止され、うめきたエリアとして再開発されている(地理院地図より)

プールで失敗して宝塚歌劇団を作る

 池田新市街を売り出した直後、小林一三は箕面に動物園を開業し、1911(明治44)年に宝塚に宝塚新温泉を開業します。のちの宝塚ファミリーランドです。この成功が、梅田に百貨店を開業して目的地に、電車をエンターテインメントに、というビジネスにつながっていきます。

 「古くからある宝塚温泉街にお客さんがたくさん入っていく様子を見て、武庫川の対岸、つまり線路側に新温泉を作りました。川向こうの温泉街は和風の旅館が主流でしたが、新温泉はヨーロッパのスパリゾートみたいな、大理石のローマ風の風呂みたいな施設でした。最新のモダンな建物を作って、その中に室内プールを作ったんです。でも当時はプールの遊び方をお客様も良くわかっていないようで、男性向けといいますか、女の人と一緒にプールに入るなんて習慣もないし、水は冷たいし冬は入れない。つまり人気がなかったんです」

 当時、外国のプールは水中に鉄管を入れて水を温めていました。しかし一三は知らなかったと自叙伝に書いています。せっかく温泉があるわけだから、温水プールにすれば良さそうなものですが、一三はきっぱりとプールをあきらめます。1913(大正2)年に、水を抜いたプールに椅子を並べて、脱衣所の壁を取り壊して舞台にして、大阪三越の少年音楽隊にならって、少女唱歌隊を結成します。のちの宝塚歌劇団です。

 「温泉街といえば、芸者さんがいて、男性客をおもてなしするような場所でした。でも、新温泉では女性も来てもらいたい。そこで、婚礼博覧会(ブライダルフェア)を開催しました。花嫁衣装や結納品を陳列して、それを見に来たお母さんや娘さんが、ちょっと休憩しましょうっていうときに、余興で宝塚少女歌劇をやったそうです。演劇も、桃太郎をモチーフにした『ドンブラコ』のように学芸会みたいなものでした。それを大阪の毎日新聞が応援してくれて、公演の規模が大きくなっていきました」

 しかし、1923年に劇場を焼失。その再建として、宝塚大劇場と遊園地ルナパークを設置。この一帯が宝塚ファミリーランド(2003年閉園)へ成長します。鉄道にとって強力な誘客施設でした。

 宝塚歌劇団は日本初の本格的レビュー(大衆娯楽演芸)を上演した劇団として有名になりました。一三は劇団員が芸者や舞妓のようなものと評されたことに憤慨し「良家の子女に高等なる音楽教育を施した生徒が演じる」とし、音楽学校と劇団を一体としました。2025年に宝塚歌劇団が分社化されるまで、劇団員は阪急電鉄の社員でした。

 その後、宝塚歌劇団は独自の歩みを始めます。1918(大正7)年に東京の帝国劇場や歌舞伎座で公演し好評を得て、1934(昭和9)年に東京宝塚劇場が開業しました。宝塚歌劇団は鉄道の誘客に留まらず、いまや日本を代表する演劇集団になっています。

宝塚大劇場(左奥)と宝塚バウホール(小劇場:右手前)ここに新宝塚温泉と、プールを備えた宝塚新温泉パラダイスがあった

プロ野球、新宿コマ劇場、東急電鉄、手塚治虫……

 阪急電鉄を成功に導いた小林一三は、活躍の場を広げていきます。もはや阪急電鉄とは離れていくので、ここでは簡単に紹介します。

 プロ野球の創設にも小林一三が関わっています。日本のプロ野球は1920(大正9)年に設立された日本運動協会と天勝野球団の2チームで始まりました。しかしこの2チームは関東大震災の影響で解散してしまいます。小林一三は日本運動協会を引き取り、宝塚運動協会として再結成します。小林はそれ以前から、グラウンドを持つ京成、東横(後の東急)、阪神、京阪、大阪鉄道(後の近鉄)が職業野球団を結成しリーグ戦を行うというリーグ戦構想を抱いていました。電鉄会社は運賃と入場料を得て、球団経営費を賄えると考えていました。

 「1936年にリーグ戦がスタートするんです。当時、関西は甲子園球場もあったし、うちの西宮球場もあったから、プロ野球の試合ができた。しかし東京は神宮球場しかなかった。あそこは大学野球のための球場だから、プロ野球は使えない。じゃあ後楽園に球場を作りましょうっていうことで、正力松太郎と後楽園スタジアムっていう会社を作って、その株式の過半数を小林が引き取りました。後楽園球場の経営を東宝(東京宝塚)にやらせたいからです。野球だけだとオフシーズンがもったいないから、サーカスとか、スポーツイベントとかで一年中使えると」

 東宝と言えば、長い歴史の後に解体された新宿コマ劇場も東宝の子会社が運営していました。東京都都市計画課長の石川栄耀(いしかわひであき)の震災復興計画案に一三は共鳴し、小林一三の「新しい国民演劇の殿堂を作る」という新歌舞伎構想によって創設されました。石川はこの地に歌舞伎町の名を与えました。

 東急電鉄の創設にも小林一三がかかわっています。渋沢栄一は田園都市構想を実現するために、田園都市株式会社を設立します。しかし開発がなかなか進まない。そこで大株主の第一生命社長の矢野恒太に相談すると、大阪で成功した小林一三を紹介され、経営を依頼します。

 「実は一三さんは1度、この話を断っているんです。でも、一三さんは三井銀行社員時代に渋沢を見ていたそうです。三井銀行、三井物産など三井グループの経営会議があって、そこに評議員として渋沢がいた。一三さんは新入社員でしたから、お茶汲みの秘書役みたいな立場でその場にいました。そのときに渋沢の講演を聴いて感銘していたから、渋沢さんをお手伝いしないわけにはいかないと思ったようです」

 東急100年史によると、小林一三は、月1回の重役会議だけ出席すると約束し、夜行列車で大阪から上京していました。しかし、前月の決議事項が進んでいないことなどに業を煮やし、自分の代わりに実行力のある重役を入れるよう進言します。結局、その話も進まず、小林は自身で武蔵電気鉄道常務、もと鉄道院官僚の五島慶太を引き込みました。このとき小林は五島に「武蔵電鉄は金がかかる。先に荏原電鉄と田園都市計画を実施して45万坪の土地を売って金を作れ」と助言したそうです。小林一三の池田新市街のノウハウは、東京で五島慶太に引き継がれました。

 宝塚歌劇団に影響を受けた人物と言えば、マンガ家の手塚治虫です。手塚は現在の大阪府豊中市で生まれ、5歳の時に宝塚に転居しました。父に宝塚歌劇団へ連れて行ってもらうほか、となりの家の三姉妹が宝塚歌劇団に入団したなどで、宝塚歌劇団は身近な存在でした。手塚治虫の代表作『リボンの騎士』は、娘役トップスターの淡島千景がモデルです。つまり、小林一三は間接的ながら、手塚治虫に、そして後世の日本アニメ界にも影響を与えたと言えそうです。『リボンの騎士』は宝塚歌劇で上演されたことがないとのこと。実現に期待しましょう。

手塚治虫記念館は宝塚大劇場から徒歩3分。かつて遊園地(宝塚ファミリーランド)があったエリアの中にある

お客様に喜んでいただく

 最後に小林一三の住居を見学させていただきました。応接室は吹抜けで天井が高く広々としています。しかし、小林の自室は小さく、書斎、寝室とも機能的です。小林一三はお客様を楽しませる一方で、自身の暮らしは慎ましい印象です。奥様の部屋には専用の水回りがあり、ビンク色のオシャレなタイルを使っていました。愛妻家という一面もわかります。

小林一三邸の応接間。吹抜けの贅沢な空間
書斎。こんな部屋で原稿を書いてみたい
小林一三の寝室。大実業家にしてはコンパクト。奥様とは別の部屋

 見学を終えて、仙海さんに質問しました。

 明治時代は今より人口が少なくて、学問を極めた人はもっと少ない。そうすると、できる人には何でもかんでも話が行っちゃうみたいなところがあったように思います。全部渋沢栄一さんが経営しなきゃ、とか、小林一三さんが引き受けなきゃ、みたいな。今後、日本が少子化すると、また1人が何役もやんなきゃいけない時代が来そうです。そのとき、小林一三の生き方に何かヒントはありますか。

 「渋沢栄一さんは農家で、一三さんは商家なんです。僕の持論ですけど、渋沢さんの仕事は経済の畑を広げてった、言わば金融です。どんどん種を植えて、畑を広げていく。クオンティティ(規模)なんです。五島慶太も農家の出身で、鉄道事業を大東急に広げていった。だから五島さんもクオンティティですね。しかし一三さんは商人の出身です。商売人はクオリティ重視です。お客さんにちゃんと喜んで選んでもらえるサービスを提供していきました」

 小林一三はクオリティの人。楽しんでいただく。小林一三モデルの本質は「品質を上げて、人を楽しませる」でした。鉄道、劇団、百貨店、温泉など、すべての商売で小林一三モデルが息づいています。小林一三の生涯は、多くの経営者に気付きを与えました。『A列車で行こう』シリーズで遊ぶとき、ぜひ、小林一三モデルを参考にしてください。

 

参考文献

講談社学術文庫 逸翁自叙伝
集英社 漫画学習 世界の伝記NEXT 小林一三

小林一三記念館 | 阪急文化財団
https://www.hankyu-bunka.or.jp/kinenkan/

掲載日:2025年12月19日

この記事の筆者

杉山淳一

ゲーム雑誌「ログイン」の広告営業からフリーライターへ転じ、「A列車で行こう7」から「A列車で行こう9」までガイドブックを執筆。現在は鉄道ライターとしてWeb記事を中心に活動する。

提供:A列車で行こうポータルサイト「A列車jp」(https://www.atrain.jp/

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