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コラム

A列車jp発「【前編】住宅開発、ターミナルデパート – 日本型私鉄経営モデルの発明者 小林一三の功績」

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『A列車で行こう』の基本テクニックのひとつとして、
プレイヤーが積極的にマンションや工場、デパートを建てると、発展が速くなります。
この手法は実際の鉄道でも使われており、阪急、東急の取り組みが知られています。
その発明者と言える人物が小林一三(1873年~1957年)です。その功績をたどってみましょう。

小林一三記念館を訪ねて

 線路を敷き、駅を作り、その周囲に家が建つと鉄道の乗客が増える。この仕組みは「A列車で行こう」シリーズの原点であり、パズル的要素の強かった第1作から変わらない面白さです。第3作の『A列車で行こう3』からはパズル要素を省き、プレイヤーが子会社を建設できるようになりました。本作以降『A列車で行こう』シリーズは、鉄道会社経営ゲームであり、都市開発ゲームでもあります。

 鉄道を建設するだけでは乗客は増えません。乗客を増やすために駅周辺に住宅を作り、勤務地と結び、商業施設を整える必要があります。このテクニックを明治時代に実際の鉄道経営で発明した人物が「小林一三」です。小林一三は1907(明治40)年に箕面有馬電気鉄道の専務取締役となり、現在の阪急電鉄グループの礎を築きました。小林一三のアイデアは民間資本による鉄道経営、沿線開発の定石となり、多くの鉄道会社に影響を与えました。

 小林一三が発明した「日本型私鉄経営モデル」は、「小林一三モデル」あるいは「小林一三イズム」とも呼ばれています。もちろん『A列車で行こう』でも使えるテクニックです。『A列車で行こう』シリーズは、「小林一三モデル」を追体験するゲームでもあります。

宝塚大劇場に佇む小林一三像

 小林一三はどんな人物だったのか。大阪府池田市の「小林一三記念館」を訪ねました。ここは小林一三の住まい「雅俗山荘」の敷地に建てられています。「雅俗山荘」の名は「芸術=雅」と「生活=俗」が一体となる場所という意味です。登録文化財に認定されています。現在、建物の一部は「邸宅レストラン」になっています。また、小林一三が収集した美術品を集めた「逸翁美術館」が近隣に設けられています。

「雅俗山荘」

 雅俗山荘は鉄筋コンクリート造の洋館です。しかし、その敷地の入り口は「長屋門」という和式の木造です。わざわざ、能勢町(大阪府)にあった庄屋から移築したと伝えられています。なぜ洋館に和式の門なのか。その理由は、小林一三が生まれ育った商家に似ていたからと言われています「私は商人だ」という、小林一三のこだわりを感じます。

旧小林一三邸の長屋門
小林一三記念館は阪急宝塚本線池田駅から徒歩10分(地理院地図を元に筆者加工)

 小林一三記念館は、一三の暮らしを伝える住居部と、一三の業績を伝える白梅館があります。白梅館は一三の生誕100年を記念して、1973(昭和48)年に増築されました。阪急文化財団上席学芸顧問の仙海義之さんにご案内していただきました。

仙海義之さん

開業時の資料に「すごろく」も

 白梅館の内部は阪急電車をイメージしたデザインになっています。「4つのモニターで、今の阪急阪神東宝グループの社業を紹介しています(仙海さん、以下同)」。梅田ゆき、箕面ゆき、宝塚ゆき、神戸ゆき、東京ゆきの扉を出ると、小林一三の時代になります。

白梅館に入ると、電車の車内をイメージした空間があります
電車の外側が小林一三の世界です

 箕面有馬電気軌道の展示のなかに、大きなポスターがありました。箕面有馬電気軌道が開業する直前のもののようです。女性がうちわを持って佇んでいます。

 「これから電車が走りますよ、と(開業を)お知らせするポスターです」

 浴衣姿の美人画です。「大阪梅田箕面電車」、「箕面公園へ僅か30分」、「宝塚温泉へ往復1時間半」と書いてあります。つまり、箕面公園も宝塚温泉もどちらも日帰りできますよと。でも、肝心の電車の絵がありません。

 「大阪の人たちにとって、箕面の滝といえば江戸時代からの観光地なのでわかりやすかったかと。電車の絵がなくても。浴衣は温泉だからですね。そして、手に団扇(うちわ)を持っています。ここに路線図が描かれています。そして箕面のMと有馬のAを図案化したマークがあります」

 ケースの中にはパンフレット類が並んでいます。

 「箕面電車は1910年に走り始めますが、その前の1908年から作られた案内書です。一三さんは文学青年だったので、自分がやりたいことを、自分の言葉で、大阪市の人たちに伝えたいと。1万部を配ったそうです」

 なんと、電車の旅を紹介するすごろくもあります。

 「コマごとに駅名だけではなく、いろんな図案がある。なんか楽しそうだな。行ってみたいなって気持ちになるような。こういう宣伝広告についても、一三さんはアイデアを出しています」

 開業時の梅田駅、宝塚駅の写真も貴重です。

 「今の国営鉄道(現・JR)の宝塚駅が先にあって、汽車がやってきて宝塚で降りて、川向こうの温泉街に行ったわけです。その間に箕面電車の駅を作った。国営鉄道の宝塚駅で降りたお客さんが箕面電車の駅前を通るので、何だ電車があるのか、だったら帰りは電車に乗ろうかとなるわけです」

 「ところが、電車は走り始めるんですけども、お客さんがいなかった。大阪が大大阪にならんとしていた時期ですから、梅田にはいっぱい人がいたんです。でも、今よりぐっと鄙びた箕面の滝や、宝塚温泉も小さな規模で、しかも毎週行く人なんていないわけですから、固定客がいなかった。そこでお客様を作り出さなくちゃいけない」

美濃有馬電気軌道の開業時の資料です

ニュータウン開発の元祖「池田室町」

 住宅開発のコーナーに来ました。宅地開発の図面や当時の写真が残っています。何もないところに木が茂る場所があります。

分譲区画図や駅の設計図、当時の写真など

 「こちらは池田の住宅開発を紹介しています。まだ線路を敷く前の路盤、地面をならしたところですね。何にもない場所だったんですけど、呉服(くれは)神社があって、この周りの2万7000坪を、線路敷設と同時に区画整理を始めて住宅街として売り出したんですよね。沿線に皆さんに住んでいただいたらご乗客になってくださると」

 小林一三が抱いていた、箕面有馬電気軌道の成功の秘策がこの住宅開発だった。ちなみに呉服神社は西暦400年代後半に、機織技術を得るために中国の呉の国から迎えた呉服媛(くれはとりひめ)を祀っている。戦国時代に社殿が焼失したが、1604(慶長9)年に豊臣秀頼によって本殿が再建されました。

 「この池田が住宅開発の1番最初になりました。電車が走り始める前の1909年にこの図面と住宅計画を作っていました。電車が走ったのは1910年の3月10日ですが、同じ年の6月にここに建てた家を売り出しています。電車が走り始めてから周りの土地を切り売りしてるわけじゃなくて、住宅地を探している方に、いかなる土地を選ぶか、いかなる家屋に住んでいくかを紹介しました」

 線路を作ったけど、お客さんがいない。だから家を売った。……ではなくて、そんなことは初めからわかっていて、先に住宅事業を始めました。これが小林一三モデルの始まりです。

 「小林一三は三井銀行で34歳までいましたから、会社経営、事業運営に大変関心があって、箕面有馬電気軌道にはお客さんがいないと見て取ったわけです。走り始めから通勤客、通学客がいるわけじゃないですから、そんな固定客がいないような状態で、電車の運賃収入なんてのは水商売みたいなもんなんです。そこで不動産開発を一緒にやったら、なんとか会社が保っていけるんじゃないか。最初から小さなデベロッパーとして始まったんです」

 呉服神社の公式サイトに「神社の丑寅方角40間の姫室を呉服神社境内へ移し、姫室跡地を室町と名づけ日本初の分譲住宅地が出来る」とあります。当時、池田駅の建設予定地は天満宮がありましたが、これも呉服神社に合祀されました。現在も地図を観ると、呉服神社の周辺が整然と区画整理された様子がわかります。

1940年前後の池田駅周辺。呉服神社と区画整理された様子がわかります(地理院地図より)

 「今も池田室町として残ってるんですけど、それぞれの区画が100坪ぐらいあります。広い大きな家なんです。憧れの庭付き一戸建て。4期に分けて販売してまして、この図面は完売の前の時期です。赤い字で売り出し価格が書いてあります。たとえばここは2300円。こちらは土地家屋一式で2500円です。それは現金でポンと買える物件ではないので、一三はどうして売り出したかっていうと、元は銀行マンですから、自分でソロバンをはじいて、今で言う住宅ローン、割賦販売を導入しました。頭金の残りを何年分割しますかって、シミュレーションもちゃんとしているんです」

 小林一三は大学卒業後、新聞記者を志しますが叶わず、三井銀行に就職しました。その時の経験が活きているわけです。

 1910年と1911年の会社の収支を見ると、運輸収入より不動産収入の方が多かったそうです。不動産が助けて、運輸が大きくなっていきました。このことから、割賦販売は箕面有馬電気軌道が建て替えるのではなく、銀行が引き受けたと思われます。

 「図面状態で売ったところもありますし、建て売りもしました。図面には『池田新市街』って書いてあります。英語で言ったらニュータウンです。当時の郊外住宅って、お金持ちの人が別荘などを建てる感じだったんです。でも、200軒もの住宅が街区を伴って作られるって、池田が初めてです。写真を見ると判るんですが、線路に沿って井桁形の電柱がズラッと並んでいます。電線が張ってあります。これは電車のトロリー線ではなくて、住宅用の送電線です。当時は電気が来ている家は少なかったんです」

 池田の家は、通勤通学に便利な庭付き一戸建てというだけではなく、入居したその日から、文化的なライフスタイルを実現できました。かなり魅力的です。

 「この時代はまだ関西電力みたいな大きい会社はありませんでしたから、箕面有馬電気軌道は自分で三国発電所(大阪市東淀川区)を作ったんです。その電気で電車を走らせて、余った電気を沿線に供給します。さらに水道やガスも引いて、ライフラインを整えました。次が箕面線の桜井駅前です。こんなふうに沿線の駅ごとに住宅を作っていくと、電車の“ご乗客”が増えるだけではなくて、駅を中心とした街ができていきます」

梅田百貨店はデパ地下で勝負

 池田室町の図面は住宅ばかりで、商店がありません。実はお買い物には不便ではないかと思いました。

 「元々池田は猪名川の水運で栄えていました。猪名川の北側に湊のようなところがあって、そこに商店街ができていました。そこまで買いに行けば良かったんですけど、一三さんは余計な(笑)ことを考えて、居住者達に勧めて購買組合を作りました。いまでも室町会館として残っています。でも、やっぱり武士の商売と言いますか、安くたくさん仕入れたときは良いけれど、余所がもっと安く売っちゃうとだめで。住人だけではなく、プロの商人を入れなくちゃダメってことで続かなかったようです」

 逆に言うと、商店を作ってあげなくても、住人は遠くへ買い物に行って調達する。家さえ建てれば、住民は自分でなんとかするだろうと一三さんは学んでしまったと。

 「そうですね。ただし、この経験が梅田百貨店につながります。梅田に百貨店を作った理由は、すでに梅田に何万人の方がおられる。タイミングとしては、1910年に宝塚線が開業して、1918年に会社名が阪神急行電鉄に改名して、1920年に神戸線が入ってきます。だから駅も拡張します。この拡張した部分の東側の端っこに、まずは5階建てのビルを建てました。これが日本で初めての駅ビルなんです」

 5階建て時代の駅ビルは、1階に東京日本橋の有名百貨店「白木屋(後に東急百貨店と合併)」を招き、白木屋と契約が終了した後、日用品店の阪急マーケットと阪急直営食堂を開業しました。小林一三は「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」と考えていました。阪急食堂はライスカレーなどの洋食を提供しました。和食より手間がかからず、注文を受けてからすぐに提供できるためでした。

 「一三さんの画期的なところは、駅にいた“ご乗客”のお客様を、“ご乗客”とだけしか見るわけじゃなくて、“購買者”として見立てることができたところです」

 いまでは当たり前の考え方を、当たり前にしたのは小林一三のアイデアでした。しだいに5階建てのビルは手狭になり、となりに8階建ての新ビルを建てて「阪急百貨店」となりました。

 「この頃、デパートとか百貨店とかっていうのはなんだったかっていうと、江戸時代の呉服屋さん。昔から町の真ん中の大通りに大店がどんとあった。一方、駅はどこにできたかっていうと、広い土地が必要だから、町の真ん中にはできなくて、町外れの空き地に駅ができるわけです」

 昔ながらの百貨店は駅から離れた場所にあります。そこで、駅からお客さんを車で送り迎えしたり、お客さん集めるために広告宣伝費をかけたりしました。しかし、駅でお買い物をしてもらえば、お客さんを集める費用がかからない。

 「高島屋と同じ品物を、阪急では安く売れる。そうしたら、同じ品物が安かったらお客さんは間違いなく安い方で買ってくださる。そういうことで、“ご乗客”にお買い物に便利な場所として百貨店を作ったわけです」

 しかし、百貨店は江戸時代から続く業態です。新参の阪急の参入は快く思わなかったのではありませんか。

 「それはプライドがありますから。そうなん。あんなとこで百貨店やって。なるほど、どうせダメだろ、みたいなね」

 客層も違うような気がします。阪急百貨店といえば「ソーライス」のエピソードが有名です。カレーライスのライスだけ。福神漬けがちょっとついて5銭。これに卓上のウスターソースをかけます。最安値で儲からないし、従業員から不満の声が出ました。しかし小林一三は、ソーライスでお腹を満たした若者が、将来、家族を連れてきてくれると期待して、自らソーライスを運び、福神漬けをオマケしたといいます。

 「昔から呉服屋さん系の百貨店は、糸モノ、呉服や洋品、布団みたいに単価が高い商品です。それを阪急がやろうとしても、西陣と取引実績が無いから、すぐに商品を置けません。それでは何が一番強かったかというと、デパ地下(食料品)なんです。食品はすぐ買って、うちに持って帰りたい。だから退勤時間になると、周りのビジネスマンとかで、もうこのデパ地下がごった返したといいます」

阪急百貨店のフロア図も興味深いです。庶民的でありながら、当時はお金持ちの趣味だったゴルフ用品の売り場もあります

 

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掲載日:2025年12月19日

この記事の筆者

杉山淳一

ゲーム雑誌「ログイン」の広告営業からフリーライターへ転じ、「A列車で行こう7」から「A列車で行こう9」までガイドブックを執筆。現在は鉄道ライターとしてWeb記事を中心に活動する。

提供:A列車で行こうポータルサイト「A列車jp」(https://www.atrain.jp/

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