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A列車で行こう はじまる観光計画 Nintendo Switch 2 Edition
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コラム

A列車jp発「[鉄道と観光地] 鬼怒川温泉の発展、衰退、そして未来」

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「A列車で行こう」シリーズにおいて、
近作「はじまる観光計画」「ひろがる観光ライン」は「観光」がテーマです。
実際の鉄道でも観光輸送は重要な役目を担っています。
今回は東京の奥座敷「鬼怒川温泉」と鉄道の関わりを紹介します。
鬼怒川温泉駅の駅前にSLの転車台がある。観光客の人気スポットだ。奥に停車中の電車はJR東日本の特急「きぬがわ」の253系電車(筆者撮影)

廃墟旅館群で有名になったけれど、高評価ホテルも多い

 鬼怒川温泉は栃木県日光市、鬼怒川の上流にあります。鬼怒川は標高2020メートルの鬼怒沼を源流とし、宇都宮市、真岡市を通って茨城県守谷市で利根川に合流します。鬼怒川温泉は鬼怒川の谷の両側に広がり、温泉旅館やホテルが林立しています。

 その一部に廃業、倒産したホテルの廃墟群があります。バブル景気崩壊などの影響で廃業して放置された建物たちです。廃墟マニアと呼ばれる人たちに「廃墟ホテル群」として人気があります。地元の人々にとっては不名誉な場所です。

 しかし、ホテルの建て替え、再生も進んでいます。Google Mapを見れば、評価3以上のホテルが20件あり、そのうち半分が評価4です。景気回復とリニューアルの成果と言えるでしょう。

 鬼怒川温泉駅は都心から直通特急列車で行けます。浅草から東武鉄道の最新型特急スペーシアXのほか、特急スペーシアきぬ、特急リバティ会津があります。東急田園都市線、東京メトロ半蔵門線方面から鬼怒川温泉駅に向かう場合、曳舟駅や北千住駅で特急に乗り換えます。

 JR新宿駅からも直通列車、特急スペーシアきぬがわ、特急きぬがわがあります。東北本線と東武日光線は久喜駅で線路がつながっています。新宿発の列車は久喜駅で東武日光線に入ります。かつてのライバルが直通運転で協調しているわけです。鬼怒川温泉駅は東武鉄道が運行するSL列車の終点でもあります。SL列車も鬼怒川温泉のイメージアップ、人気に貢献しています。

 鬼怒川温泉の発展と再生に、鉄道がどのようにかかわってきたか、歴史の振り返りから始めましょう。

秋の紅葉に染まる鬼怒川温泉
鬼怒川温泉郷絶景の宿絹の渓谷碧流滝見橋(吊橋)からの廃墟ホテル風景

滝温泉から始まる鬼怒川温泉の歴史

 「鬼怒川温泉」という呼び名は1927(昭和2)年頃に付けられました。その歴史は江戸時代の1692(元禄5)年から始まります。

 

鬼怒川温泉の発祥は1692(元禄5)年に下滝村の沼尾重兵衛が鬼怒川右岸河床に温泉を発見したのにはじまり、滝の湯と称して村民6人共同で浴舎を建て、村民の入湯に供したのであったが、1751(宝暦元)年に日光奉行所より日光神領地であることを理由に没収され以後明治維新まで入湯を禁じられて、湯治場としての機能を失ってしまっていた。
(伊香保・鬼怒川における温泉観光集落の発達と経済的機能(山村順次)より)

 

 没収された温泉場は、日光詣の大名や日光の寺院の僧侶たちのみ利用を許されたそうです。

 明治時代になっても滝の湯が開発される様子はありませんでした。1873(明治6)年に藤原村の村民によって鬼怒川左岸に温泉が発見されましたが、こちらも発展せずに終ったようです。藤原村は今市と会津若松を結ぶ「会津西街道」沿いにありますが、往来する旅人にとっては通過点にすぎなかったようです。

 1878(明治11)年に日本を旅した英国人旅行家イザベラ・バードも、横浜から北海道に向かう旅の途中で藤原村を通過しています。著書『イザベラ・バードの日本紀行(UNBEATEN TRACKS IN JAPAN)』によると、イザベラは「快適な生活は日光に置いてきた」とのこと。東京から日光までは日光東照宮へ詣でる徳川将軍家や大名が通るため整っていました。しかし日光から北は未開の地のようでした。人力車は使えず、馬に頼る悪路でした。

 「藤原には四六戸の農家と宿屋が一軒あり」とイサベラは書いています。しかし、温泉に入った記述はありません。「どれも暗くてじめじめして汚くて隙間風の入る住居」で虫だらけ。蚤がたくさんいて、閉口したガイド役と早朝に立ち去っています。温泉に入ればさっぱりしたような気がしますが、それほど魅力的ではなかったのでしょう。

鬼怒川温泉と日光の位置(地理院地図を元に筆者加工)

新温泉の発見と鉄道の事業化

 そんな藤原村に鉄道が開通します。きっかけは水力発電所とダム建設でした。1911(明治44)年に下滝水力発電所を着工し、その資材運搬用に軌道が建設されました。1913年にダムが完成したとき、この軌道は用済みとして廃止になる予定でした。しかし、藤原村の村長は村の生産性向上のため軌道の存続を望みます。そこで今市町長を社長とし、沿線の鉱山会社や東京の資本家の出資を受けて、下野軌道株式会社が設立されました。

 1917(大正6)年に大谷向今市駅(現・大谷向駅)から大原駅(現・鬼怒立岩信号場)まで約10キロが開業しました。下野軌道の主な収入は発電所とダム建設の資材輸送でした。ダム完成後も木材や鉱石輸送などが活躍しました。そして完成したダムにより鬼怒川の水位が下がると、川底から新しい源泉が次々に発見されました。

 そこで下野軌道は1919(大正8)年3月に下滝駅(現・鬼怒川温泉駅)へ延伸、10月に起点の大谷向今市駅から新今市駅へ延伸します。新今市駅は官営鉄道の今市駅前にありました。これで東京から鉄道を乗り継いで滝温泉へ行けるようになりました。さらに12月、藤原駅(現・新藤原駅)まで延伸し、これで全線開業となりました。

 下野軌道は1920(大正9)年に水力発電の電気を活用して電気機関車を導入する計画を立て、1921(大正10)年に会社名を下野電気鉄道とします。1922年に全線の電化が完成し、このときに、下滝駅を移転し大滝駅と改称し、藤原駅も移設して新藤原駅としました。

 ところが、沿線の鉱山会社が採掘不振から経営難に陥ります。下野電気鉄道の輸送収入も減ってしまいます。おそらくここで、鉱山会社が下野電気鉄道の株を売却したかったのでしょう。そこに注目した会社が東武鉄道でした。東武鉄道は明治時代末期から東京と日光を結ぶ計画を持っていました。しかし日光に至る鉄道は官営鉄道が先に開通しています。そこで競争力を高めるために、温泉に通じる下野電気鉄道と連携しようと考えたのでしょう。東武鉄道は下野電気鉄道の株主として名乗りを上げ、1925年までに株式の約31%、東武鉄道関係者も含めると持株比率は約52%となりました。下野電気鉄道か実質的に東武鉄道の傘下となリます。

下滝発電所は現在も鬼怒川発電所として稼働している。発電所に水を落とすために黒部ダムが造られ、水量を調整するために逆川ダムが造られた。この2つのダムによって鬼怒川の水量が減り、新たな温泉の発見につながった(地理院地図を元に筆者加工)

鬼怒川温泉駅の誕生

 東武鉄道の意向があったと思われますが、大滝駅は1927年に鬼怒川温泉駅に改められました。新たに発掘された新温泉群と滝温泉、藤原温泉を合わせて鬼怒川温泉と呼ぶようになりました。鬼怒川温泉の新時代の始まりです。

 1929(昭和4)年4月、東武鉄道は伊勢崎線の杉戸駅(現・東武動物公園駅)から日光線建設に着手しました。4月に新鹿沼駅、7月に下今市駅と延伸し、10月に東武日光駅に到達し、約95キロを1年で全通させました。官設鉄道の日光線の単線に対して、東武日光線は全線複線電化という立派な幹線鉄道でした。東武日光線の開業と同時に、東武鉄道は東武伊勢崎線から直通運転を実施しています。ここから官営鉄道との競争が始まり、戦後も国鉄と集客を競い合う関係となりました。

 下野電気鉄道にとっても東武日光線の開通はチャンスでした。1929(昭和4)年に新今市と大桑駅の間、下今市駅に近いところに小倉町駅を設置し、乗り換えやすくしました。さらに10月、新今市駅、小倉町駅を廃止し、ルートを変更して下今市駅に直接乗り入れました。親会社の東武鉄道にとって都合がよいルートです。ライバルの官営鉄道に便宜を図る必要はないわけです。

 このときまで、下野電気鉄道の軌間は762mmでした。ダム資材輸送時代の軌道をそのまま使っていたからです。しかし、東武鉄道の下今市駅に乗り入れるため、東武鉄道の軌間、1067mmに合わせる工事を始めました。翌年の1930(昭和5)年に新藤原までの改軌が終わりました。翌年に架線の電圧を600Vから1500Vに昇圧して、東武鉄道と下野電気鉄道の電車による全線直通運転が可能になりました。

 時は流れて13年……といってもこの間に東武鉄道と官営鉄道の日光輸送争奪戦があったわけですが、1943(昭和18)年に東武鉄道は下野電気鉄道を買収します。戦時統制のため、という論文があります。しかし、もともと東武鉄道は下野電気鉄道を傘下に置きたいと考えていたことでしょうから、戦時統制はきっかけの1つでしょう。

 こうして、下野電気鉄道は東武鉄道鬼怒川線になりました。

東武鉄道鬼怒川線、東武鉄道日光線、JR東日本日光線の位置。灰色は下野電気鉄道時代に存在した新今市駅に向かう線路(地理院地図を元に筆者加工)

日光競争の影にモータリゼーションが忍び寄る

 第二次世界大戦後、官営鉄道は国鉄(日本国有鉄道)になりました。そして国鉄と東武鉄道の間で日光輸送争奪戦が再開します。東武鉄道は「デラックス・ロマンス・カー(DRC)」を走らせ、スピードアップや冷房の搭載、スチュワーデス(当時の呼び方)の採用などで圧倒的なサービスを提供しました。

 一方の国鉄は序盤で善戦します。157系という特急並みの車両を投入しつつ、特急ではなく準急として料金を安くしました。しかし、スピードの点で不利でした。宇都宮駅で進行方向を変える必要があり、日光線が単線だったからです。さらに、国鉄の経営状況が悪化し、日光線列車の投資が進みませんでした。1982(昭和57)年に上野発日光行きの急行「日光」が廃止され、国鉄と東武鉄道の競争は東武鉄道の勝利で決着します。

 高度成長期の日光競争は、鬼怒川温泉にとっても良い影響を与えました。都心と日光の交通が便利になることは、鬼怒川温泉の集客にもつながるからです。しかし、鬼怒川温泉の人気と高度成長によって、温泉観光客に変化が現れます。バス旅行、団体ツアーの隆盛です。家族旅行から団体旅行へ。企業の社員旅行が増えました。

 温泉旅館としては、家族旅行をひとつひとつ受け入れるより、バスを何台も連ねてやってくる大口団体を受け入れた方が儲かります。そこで、鬼怒川温泉の旅館、ホテル群は団体向けに変わっていきました。大浴場、大宴会場、数人部屋の組み合わせです。この傾向はオイルショックで顕著になりました。鬼怒川温泉の宿泊客数は年間200万人に上昇し続ける中で、東武鉄道の乗客は減少していました。鉄道旅客の減少はマイカーの普及も大きく影響しています。

 バブル景気も手伝って団体旅行は好調になり大型施設の建設が進みました。しかし、バブル景気の崩壊で再び温泉旅行のスタイルが大きく変わります。社員旅行が規模を縮小、または廃止となり、団体受け入れに特化した温泉旅館、ホテルは立ち行かなくなりました。家族やグループ向けに転換しようにも、自家用車向けの駐車場がありません。

 大宴会場、大浴場も好まれず、数人の宿泊よりツインベッドや4人程度の和室が好まれるため、受け入れ可能な集客数が減ります。つまり、団体向けの大型施設は、カップルや家族を受け入れると損益分岐点を下回ってしまいます。これらの「時代について行けない宿泊施設」が廃業し、廃墟ホテル群になったと言われています。

東武鉄道の勝利を決定づけたDRC(デラックス・ロマンス・カー)ジュークボックス付きサロンルームが新しかった
国鉄が日光行き準急に向けて投入した157系電車。「白根」は草津温泉行き。

日光の世界遺産登録と「スペーシア」

 東武鉄道と国鉄の競争は東武鉄道の勝利に終わりました。しかし東武鉄道のライバルは国鉄だけではありません。視野を広げると、東京とその近郊の人々、訪日観光客が観光に向かう場所は、箱根、秩父、伊豆、三浦半島、江の島・鎌倉、高尾山、房総などがあります。つまり東武鉄道にとって、小田急電鉄、西武鉄道、京急電鉄、京王電鉄、JR東日本がライバルです。観光地と鉄道が組んだ、地域ぐるみの観光客獲得競争があります。東武鉄道の特急列車にとって、小田急ロマンスカー、西武レッドアロー、特急踊り子が強敵です。

 そこで鬼怒川地域は魅力向上策を進めます。1982年に「日光江戸村」が開業、同時期に鬼怒川ファミリー牧場が「ウエスタン村」にリニューアル(2006年に休園)。1992年に「日光猿軍団」が開業(現・日光さる軍団)。そして東武鉄道は100系電車1990年に「特急スペーシア」を運行開始し、東武鉄道95周年記念事業として1993年に東武ワールドスクウェアを開業しました。

DRCに代わって登場した「スペーシア」。個室が人気だった(筆者撮影)

 こうした状況の中で、日光に追い風が吹きました。1999年に「日光の社寺」が世界文化遺産に登録されました。海外からも日光が注目されるチャンスです。このチャンスを生かすため、東武鉄道とJR東日本が極秘裏に連携します。2004年、両社は東武特急スペーシアのJR新宿駅乗り入れと、JR東日本の特急の東武日光線直通を発表し、2006年から運行を開始しました。国鉄時代はライバルでしたが、JR東日本では手を組みました。これは大きな話題になりました。

 鬼怒川方面も新たな列車が誕生します。1986年に野岩鉄道会津鬼怒川線が新藤原駅~会津高原尾瀬口駅間で開業し、東武鬼怒川線、日光線と直通運転を開始します。東武鉄道は浅草~会津田島間に急行「おじか」を運行しました。「おじか」は後に「南会津」に改称します。2002年に快速「AIZUマウントエクスプレス」が運行を開始し、「南会津」接続する形で会津若松まで運行されました。「AIZUマウントエクスプレス」は名古屋鉄道で特急「北アルプス」として活躍したキハ8500系を使用しました。現在は新型車両に置き換えられ、鬼怒川温泉駅を発着しています。

魅力ある列車が鬼怒川温泉の再開発を後押し?

 次々に新列車が投入される中で、ついに観光列車の真打ち登場。「SL列車」が投入されます。2016年に東武鉄道はJR北海道が保有するSLを借り受けて、鬼怒川線で運行すると発表しました。JR北海道が経営危機でSL2台を維持できず1台を放出、東武鉄道はSLという産業遺産を継続するため受け入れた格好です。SLの再整備と運転士の育成に当たり、すでにSLを運行している鉄道事業者からの応援を得て、2017年から「SL大樹」の運行が始まりました。

 「SL大樹」運行開始の前年にあたる2016年から、東武鉄道は新しい特急電車「リバティ」を投入しています。26年ぶりの新型特急は分割併合を可能とし、浅草駅から下今市駅まで日光行きと鬼怒川温泉行きを併結し、下今市で分割します。この運用の効果で、鬼怒川温泉行きの特急の運行本数が増えました。

リバティ(左)とスペーシアX(右) (筆者撮影)

 2023年に東武鉄道は新型特急「スペーシアX」の運行を開始します。展望個室、グループ向け個室、ラウンジ風展望車などを連結した贅沢な設備が特長で、カフェスタンドで日光産の地ビール、地酒、軽食を提供します。現在、浅草駅~東武日光駅間で1日に4往復、浅草駅~鬼怒川温泉駅間で1日に2往復を運行しています。また、浅草発日光行きのスペーシア1号は、下今市駅で「SL大樹」に連絡し、蒸気機関車で鬼怒川温泉に行けるので人気があります。

 鉄道の魅力アップに呼応するかのように、鬼怒川温泉のリニューアルも進みました。既存ホテルのリブランドや新規開業が続いています。例を挙げると、2006年に老舗の「麻屋旅館」が産業再生機構の支援を受けて「あさやホテル」として再生されました。2010年に大江戸温泉物語が「鬼怒川御苑」を「ホテル鬼怒川御苑」に、「鬼怒川観光ホテル別館」を「Premium 鬼怒川観光ホテル」にリブランドしました。2015年に星野リゾートが「界 鬼怒川」をオーブン。2022年に会員制リゾート「東急ハーヴェストクラブVIALA鬼怒川渓翠」をオープン。休業していた「鬼怒川温泉ホテルニューおおるり」が2022年に再オープンしました。

SL「大樹」(筆者撮影)

 東武鉄道の新型特急電車やSL運行が話題となり、鬼怒川温泉が注目されて、新たな投資を呼び込んだと言えそうです。訪日観光客は自動車より公共交通機関を好みますし、東京近郊からマイカーでロングドライブして行くというより、鉄道で行く方が便利で楽しい地域でもあります。この調子で発展していくと、廃墟群も解体され新しいホテルになるかもしれません。

 イザベラ・バードが開国したばかりの明治時代に素通りした鬼怒川温泉を、いま、大勢の訪日観光客が訪れています。鉄道を便利にして魅力を高めて、観光地を再開発する。そんな鬼怒川温泉に、ゲームマップ作りのヒントがありそうです。

 

Nintendo Switch 2

 

 

参考文献

伊香保・鬼怒川における温泉観光集落の発達と経済的機能(山村順次)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1925/42/5/42_5_295/_pdf/-char/en

戦後における東武鉄道と日光、鬼怒川地域の観光との関連についての史的考察
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/17/0/17_0_495/_pdf/-char/en

なぜここばかり?鬼怒川廃墟群【2024年版】これからどうする?-tochipro
https://www.tochipro.net/entry/kinugawahaikyo2024#%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E6%A1%88%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%86%8D%E7%94%9F

掲載日:2025年12月12日

この記事の筆者

杉山淳一

ゲーム雑誌「ログイン」の広告営業からフリーライターへ転じ、「A列車で行こう7」から「A列車で行こう9」までガイドブックを執筆。現在は鉄道ライターとしてWeb記事を中心に活動する。

提供:A列車で行こうポータルサイト「A列車jp」(https://www.atrain.jp/

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