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A列車で行こう ポータルサイト > 特別企画 > 多摩丘陵に第2の東京を作れ 東急田園都市線と多摩田園都市<前編>

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コラム

多摩丘陵に第2の東京を作れ 東急田園都市線と多摩田園都市<前編>

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鉄道がない土地を買い上げ、そこに鉄道を敷いて価値を上げ、不動産事業や生活サービス事業で利益を上げる。
この考えのもと、関東で大都市近郊の未開の大地を買収し、
鉄道を建設して広大な都市を造った事例があります。
東急電鉄が手がけた「多摩田園都市」です。
多摩田園都市の中心に据えられたたまプラーザ駅付近。左側がたまプラーザテラス(駅ビル)、右側がたまプラーザ東急百貨店(筆者撮影)

多摩田園都市はどこ?

 東急田園都市線は東京の渋谷と神奈川県の中央林間を結ぶ路線です。東急グループが開発した多摩田園都市を象徴する基幹路線で、典型的な大都市郊外路線と言えます。ただし、東急田園都市線の沿線一帯のすべてが多摩田園都市ではありません。具体的には図のエリアです。

多摩田園都市のおおよその位置(丸数字は開発ブロックの番号)(地理院地図を加工)

 第1ブロック、第2ブロック、第3ブロックは、まちづくりで共通点があります。拠点となる駅にショッピングセンターや百貨店などの大型商業施設が集積しており、その周辺に住宅公団(現・UR都市再生機構)の団地と戸建て住宅の分譲地が広がっています。

 拠点駅から団地まで歩道付きの2車線道路が整備され、バス通りとして引き込み式の停留所が設置されています。住宅街の道路も計画的に設置されており、地図を見ると幾何学的な模様を形成しています。田園都市線が木の幹だとすると、バス通りが枝、住宅街の道路は葉脈のようです。

あざみ野駅前からバス通りを望む。この道路の地下に横浜市営地下鉄ブルーラインが延伸、小田急の新百合ヶ丘を結ぶ予定だ

 拠点駅はバスターミナルが設置されており、各エリアの隅々まで東急バスの路線網があります。これは、東急電鉄が開発した住宅地や、自治体とへのアクセス路線です。小田急バスや横浜市営バスも乗り入れています。こちらは東急の開発との関連が薄く、小田急バスは小田急の駅から郊外へ延びた路線が田園都市線の駅に到達した形、横浜市営バスも神奈川県や横浜市が開発した団地と田園都市線の駅を結んでいます。

 住宅のほかに、大学や総合病院も配置されました。これらは東急電鉄が取得した土地が譲渡されています。これらもバス通りや幹線道路の近くにあり、計画的な配置のように見えます。このように、第1ブロック、第2ブロック、第3ブロックは東急電鉄が移動、教育、健康、生活のサポートをするように形成されています。バスも電車もキライだという人は自動車に乗るわけですが、かつては住宅街のガソリンスタンドも東急グループが運営していました。

第1ブロックは梶ヶ谷駅周辺から鷺沼駅周辺のエリアです。梶が谷駅周辺のみ川崎市高津区で、ほとんどのエリアは川崎市宮前区にあります。拠点となる駅は鷺沼駅です。(地理院地図を加工)
第2ブロックはたまプラーザ駅周辺から市が尾駅周辺のエリアです。田園都市線周辺は横浜市青葉区、北部は川崎市麻生区、南側は横浜市都筑区です。拠点となる駅はたまプラーザ駅です。(地理院地図を加工)
第3ブロックは藤が丘駅周辺から青葉台駅周辺のエリアです。全域が横浜市青葉区です。拠点となる駅は青葉台駅です。(地理院地図を加工)

 一方で、第4ブロックは様子が異なります。拠点駅の長津田駅は田園都市線とこどもの国線、横浜線の乗り換え駅で、鉄道の要衝と言えます。しかし駅前に商業施設の集積がありません。北口のスーパーマーケットがある区画は、1981年から取り組まれていた再開発事業によるもので、2013年に完成しました。高層マンションと区民文化センターがあります。そのほかの地区は区画整理されていません。

 長津田駅北口のロータリーは神奈川中央交通のバスが発着します。長津田以外の駅も東急バスの拠点がありません。その意味でも多摩田園都市らしくないブロックといえます。中央林間駅周辺は小田急電鉄が「林間都市」構想で開発した地域です。住宅開発地域として、つくし野、すずかけ台、つきみ野周辺は田園都市の雰囲気を残しています。

 大きく変わった駅はすずかけ台駅とつきみ野駅の間にある南町田駅です。2002年にアウトレットモールの「グランベリーモール」が誕生しました。2006年にはシネマコンプレックスも入りました。2019年に南町田グランベリーパークが開業し、駅名も南町田グランベリーパーク駅になり、急行停車駅になりました。これで第4ブロックになかった商業拠点ができました。南町田グランベリーパークの敷地面積は約8万3000平方メートルあり、田園都市線沿線で最大のショッピングモールです。

第4ブロックは田奈駅周辺から中央林間駅周辺です。複数の行政区域にまたがっており、田奈駅付近は横浜市青葉区、長津田駅周辺は横浜市緑区、つくし野駅とすずかけ台駅周辺は東京都町田市、つきみ野駅と中央林間駅は神奈川県大和市です。拠点となる駅は長津田です。(地理院地図を加工)

多摩田園都市エリア決定まで

 田園都市のルーツは、一万円札の顔でもお馴染みの渋沢栄一の構想でした。渋沢は幕臣時代からフランスの万博を視察し、明治時代は実業家として活躍しました。引退後も民間外交として欧米を訪れ、田園都市の形成を知りました。

 この時の欧米の田園都市はエベネザー・ハワードの著書『明日の田園都市』の影響を受けていました。ハワードは「工業の発展と共に住宅が周囲にあり、その広がりと共に通勤時間が長くなっている状況」に苦言を呈した上で「郊外に公園や森に囲まれた住宅と、賃貸収入を活用した公共施設を作るなど、自立的で職住接近の計画的な都市を造るべき」と説きました。

 渋沢も田園都市構想に関心を持ちました。日本でも「計画的な宅地開発」を目指し、1918年に田園都市株式会社を設立します。この時点で小林一三は阪急鉄道沿線の宅地分譲を始めていました。そこで渋沢は小林一三に田園都市株式会社の経営を頼みました。小林は阪急電鉄の経営もあったので、無報酬、日曜のみ、小林の名前は出さないという条件で引き受けます。

 始めに手がけた街は荏原群の碑文谷村、碑衾村、調布村、玉川村でした。分譲地名は「洗足田園都市」です。この地域と都心を結ぶ鉄道として、目黒蒲田電鉄(現・東急目黒線)が設立されました。小林は多忙のため、専務だった五島慶太に経営を引き継ぎました。

 田園都市株式会社は次に、調布村で「田園都市多摩川台」を分譲します。ここが現在の田園調布です。多摩川台地区の分譲が終ると、目黒蒲田電鉄は田園都市株式会社を吸収合併します。この会社が後の東急電鉄、東急不動産になります。

田園調布駅周辺。駅を中心とした宅地開発が伺える(地理院地図を加工)

 五島慶太は1944(昭和19)年に東急電鉄社長を辞任し、運輸通信大臣に就任します。日本が第二次世界大戦に敗戦すると、五島は公職追放となりました。1952年に東急電鉄の会長として復帰した五島は多摩田園都市構想に着手します。「東京駅を中心とする40キロ圏のうち、もっとも開発が遅れているのは二子玉川から厚木大山街道沿いの鶴間、座間および海老名地方にいたる地域である」とし、城西南地区開発趣意書を発表します。

 東京の人口が増えており、受け皿として第2の東京をめざす田園都市を造る。そのために厚木大山街道沿いに約400~500万坪の土地を買収するというものでした。東京から少しずつ西へ発展させていけば開発が遅れてしまうため、厚木大山街道に沿って電車または高速道路を作る方針を示し、「少なくとも10ヵ所くらい田園都市的な都会をつくって、同時にこの地方全部の発展を盛り上げる」という計画としました。

 城西南地区開発趣意書は、現在の多摩田園都市地域に加えて、現在の港北ニュータウン地域とその南側の国鉄横浜線沿線に至る広範囲な計画でした。開発地域の北部に高速道路または鉄道を建設し、南側は渋谷から小机、横浜市街、湘南方面に続く高速道路「東急ターンパイク」を建設する構想でした。ターンパイクは有料道路という意味で、東急が運営する高速道路です。

城西南地区開発計画のおおよその位置(地理院地図を元に加工)

 しかし、1956(昭和31)年に定められた首都圏整備法と、1958年に策定された第1次首都圏整備計画によって、変更を余儀なくされます。この計画では既成市街地の周辺に幅10kmほどのグリーンベルト(市街化調整区域)を設定し、市街地の膨張を抑制する方針が定められていました。城西南地区開発趣意書で示した地域の多くが開発できなくなります。

 そこで、新たに策定された多摩川西南新都市計画では、開発地域を4ブロックに分け、ブロック間の境目を市街化調整区域としました。この時の4ブロックは、第1ブロックと第2ブロックが現在とほぼ同じ、第3ブロック(旧)は現在の港北ニュータウン南側、第4ブロック(旧)が現在の第3ブロックに長津田町を加えたエリアでした。

多摩川西南新都市計画のおおよその位置。ブロック間に隙間がある理由は、グリーンベルトの趣旨に沿ったと考えられる。赤い線は東急ターンパイク予定地(地理院地図を元に加工)

 北部地域の都心への交通手段は鉄道で建設されることになりました。これが現在の田園都市線です。ちなみに北部交通の道路として、厚木大山街道に沿うルートで主要地方道東京沼津線が設定され、1956年に第2級国道246号線に昇格しています。

 マイカーブームの到来を受けて、首都高速道路と東京近郊の高速道路の整備が始まる中で、1961年に日本道路公団が第三京浜国道の認可を受けました。その結果、東急ターンパイク計画は経路が重複するため白紙になり、東急ターンバイクを前提とした第3ブロック(旧)も白紙になりました。その結果、現在の第1ブロック、第2ブロック、第3ブロック(新)、第4ブロック(新)に落ち着きました。第4ブロック(新)は、第3ブロック(旧)の代わりに設定された地域です。ほかのブロックに比べて温度差があるように感じる理由はそこかもしれません。

 これで多摩田園都市計画が整いました。東急電鉄の社員が地主を一軒ずつ訪問し説得して、土地を確保していきます。行政側の区画整理も進みます。東京で働くお父さんがマイホームを手に入れ、家族を理想の生活環境に住まわせる。夢のような生活が始まろうとしています。

 次回は、そんなお父さんたちの通勤路線、田園都市線の誕生と延伸についてご紹介します。

1960年代の地図に多摩田園都市を重ねた。起伏の多い未開の地形が多い(地理院地図を元に加工)
2019年の地図に多摩田園都市を重ねた。隅々まで開発されている。すこし緑かがっているように見える理由は、大小さまざまな公園が散在するためだ(地理院地図を元に加工)
あざみ野駅は田園都市線開通時には無かった。地域の区画整理事業の開始と当時に駅が設置され、1977年に開業した。

[参考資料]

多摩田園都市 開発35年の記録(1988年10月発行)|東急株式会社
https://www.tokyu.co.jp/history/tama35/

東急100年史(WEB版)および関連社史・事業史|東急株式会社
https://www.tokyu.co.jp/history/

東急バス路線図
https://www.tokyubus.co.jp/route/routemap/digital/routemap_jp/

営業所・路線図について | 路線バス | バス情報 | 利用者の皆さまへ | 神奈川中央交通
https://www.kanachu.co.jp/bus/route/office.html

掲載日:2025年6月6日

この記事の筆者

杉山淳一

ゲーム雑誌「ログイン」の広告営業からフリーライターへ転じ、「A列車で行こう7」から「A列車で行こう9」までガイドブックを執筆。現在は鉄道ライターとしてWeb記事を中心に活動する。

提供:A列車で行こうポータルサイト「A列車jp」(https://www.atrain.jp/

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